2010年12月1日水曜日

短編微書 「諸刃のサクラ」

短編微書「諸刃のサクラ」
一章

**西峰小学校三年一組教室**

「あ、ねぇ、ジョウくん。ちょっといいかな?」
「カズか?ちょうど良かった。いいぜ。なんだよ」
「いや、ちょっとさ…」
と、いつものか細い声で和久は丈太郎を二階にある教室から音楽室へ向う階段を下って、
一階の男子トイレに呼び出した。

「おい、次は音楽室だぞ。三階だぞ!なんだよ?」
「…うん。あのね。」
そういうと、次に使う音楽の教科書の間からスッとナイフを出して丈太郎の左の頬にあてた。
「ジョウくん。き、君は、調子に乗りすぎなんだ」
あまりの突然さに、丈太郎は何が起こったのか分からずただ黙っていた。
「ぼ、僕はね、いつでも君を殺せんるんだ。わ、分かるよね?」

いつもは活発で明るい丈太郎も、さすがに小学三年生同士のやりとりには重すぎたのだろう。
今にも泣きそうな表情で和久の目を必死に見続けていたが、ようやく声を出した。

「あ…俺は友達だろ?…お、お前と仲良くしてんの、お、俺だけじゃんか?」
「そ、そんな態度が気に入らないんだ」
学校では大人しくてどちらかと言えば冷静で無表情に近い和久は、
若干の声に震えがあるものの、淡々と言葉を発した。

「許せないよ。ゆ、許せない。許せないよ」
「な、な、なにがだよ?ゴメン!ゴ、ゴメン…うっうっうっ…」

その変な冷静さが拍車をかけるように、丈太郎は声を殺して泣き出し、その場に蹲ってしまった。
和久はその姿を見ても、笑うわけでも興奮する訳でもなく、バタフライナイフの刃を丁寧に閉じて
そのままポケットにしまい、ナイフを手にした時に落とした音楽の教科書を広い上げ、
トイレを後にした。



**木造六畳のワンルーム**

朝方眠りに就いた圭介は、夕方になってボサボサの茶髪と共に万年床から起きてきた。
「ふぁ~あ、眠みぃ。昨日はマジでツイとらんじゃった・・・」
と呟きながらボリボリと頭を掻き、昨夜まで財布に入っていた八千円を思い出しながら
タバコに火を付けた。

高校を一ヶ月で中退した圭介は、喧嘩とバイクに明け暮れる毎日で、
それに見兼ねた父親は、知り合いの棟梁に頼み込んで、二十歳の誕生日の翌日から
とび職人として六年間せっせと働いている。
初めは、キツイばかりですぐに逃げ出すつもりだったが、始めて三ヶ月が過ぎたあたりか、
大きなリフォーム案件で知り合った客の一人娘、美香と付き合いだしてからというもの
奇跡的に仕事も恋愛も奇跡的に続いている。

「おはよ」
「うわっ!な、なんじゃっ!来とったんか!?」
圭介は思わず加えていたタバコを落とし、
慌てて拾い裸足で畳を軽く擦りながらまた口に加え直した。

「もう、汚いな!って「来とったんか?」じゃないわよ!圭ちゃんが映画見に行こうっていうから来たんじゃない!
カギだって掛かってなかったし。ってどうせ、また麻雀だったんでしょ?まったく・・・朝までやって何が面白いわけ?」
「お前には分からんよ!唯一の楽しみぐらいいいじゃろが?」
「アンタ、パチンコも競馬もするじゃん」
「…あ、まぁ」
と、このような相変わらずの会話が長続きする秘訣のようだ。

「つーか、まだ間に合うか?」
「今出れば多分間に合うわ。ったく、ヤクザ映画の何が楽しいんだか。こんなところ生徒に見られたら面倒だわ」
「何言ってんだよ。正義は勝つ!って、最強の教育じゃ!分からん奴やのう」
そんなバタバタとした毎度の会話を繰り返しながら、二人は木造六畳のワンルームを後にした。



**スーパーまるよし**

『まっると良い品♪いらっしゃいませ~まるよしへ~♪』
毎日同じ顔ぶれの店員と客の店内で、丈太郎の母親、横川美智子はパートとして
レジ打ちをやっている。

「上条のおばあちゃん。今日は、七七七円になります。あら?今日きっと良いことありますね?ふふふ」
と、明るい性格に加えて、四十歳過ぎには見えないルックスから美智子のファンは多い。
そうして、夕方のタイムセールがひと段落着いた五時を過ぎると、タイムカードを押し、
着替えて、余り物を安く買って自転車で帰宅する流れが月曜日から金曜日までの日課となっている。
しかし、その日は、急きょ人手が足りないということで、久しぶりの日曜出勤だった。

「佐藤さん、今日はなに?」
「お?みっちゃんか?今日はエビフライだな!」
「さっすが、佐藤さん!」
会話の相手は、まるよしの社員、主任の佐藤。
事実上、店舗責任者として任されている30代後半の男だ。
佐藤は、パートの奥様や学生のために、惣菜品を少し多めに作り、お肉の切れ端や野菜の
陳列できそうに無い物などを持って帰らせたり、安く売ってあげている。
本当は良くないが、社長の吉井もそれは黙認しているようだ。

「ビビビ・・・ガッチャン」
「あら、十五分過ぎっちゃったわ・・・」
「お?おつかれ。今日は助かったよ」
吉井だ。
「あ、社長。お疲れ様です。ちょっと、主任と少し話し込んじゃって」
「そうか。でも、みっちゃんはよく働くね~。本当助かるよ」
「いや、子供が三人も居ると、ね。しかも、家のローンがあって、旦那の稼ぎだけじゃ厳しいでしょ?あははは」
「私も、妻にも同じこと言われてそうですよ。まったく・・・」
「いやいや、個人店とはいえ、二十年もあって、こんなに常連さんに通ってもらえるスーパーなんて数少ないですよ!ね?
あ、時間が!ではお先に失礼します」
休憩室の時計は、午後五時半を回っていた。



**家庭教師の日**

「カズちゃんへ冷蔵庫にご飯が入ってます。温めて食べてね。今日は先生来る日だからね」

一人っ子の和久は、両親が病院に勤務していて帰りも不定期なため、
いつも首にカギをぶら下げた「カギっ子」だった。
ちょうど一年前くらいに購入した高級住宅街の広い一軒家に、小学三年生が一人で過ごすには
広すぎる家だが、和久が入る部屋は、自分の部屋とトイレとお風呂、
そして、このリビングのテーブルだけだ。

ちゃんとしたメモ帳に書かれた手紙と、温め終わって不要になったサランラップを一緒に丸めて
ゴミ箱に捨て、当たり前のように温めたご飯を食べた。
もうそんな暮らしが当たり前になっていて、数年前のように母親の陽子に寂しい素振りを
見せることもなくなっていた。

「ピンポーン」
毎週土曜日は家庭教師の日で、毎週午後三時前後には太陽がやって来る。

「カズくん。こんにちは。さ!今日も頑張ろうか!」
元気な声で笑顔が爽やかな教師は佐藤健二という二十歳の全国的にも有名大学の二年生。
和久は、そんな健二の明るさにも大して表情を変えることなく「こんにちは」とお辞儀すると、
リビングから黙って陽子の用意したお茶菓子を手にして、自分の部屋へと続く階段を
すたすたと上がっていく。

「よっしゃ!ほな、やろか?まずは、前回の宿題見せてみ?・・・・・おう、よう分かっとるな!」
と、開いている教科書は小学五年生用のものだ。
毎週、元気で明るい健二と言葉数少ない和久の、まるで太陽と月がまじあう様な二時間が
あっという間に過ぎていく。


「ふー。今日はこの辺くらいまでやな?それにしても、やっぱカズくんはすごいなぁ。ホンマに三年生かって思うわ」
「い、いえ。ありがとうございました。あ、あのこれ・・・」
勉強が終わると、用意されたおやつを食べる。というか、予め部屋には置いてあるのだが、
五分も経たずして、そんなことは二人の記憶からは外されるような感じだ。
そうやって、食べがら健二は一方的に色々と喋っていた。大学の話や、地元の話や、
自分の友人や恋人の話など・・・今日もバームクーヘン片手に、サークルで入ったバトミントンに
ついて話していたが、その殆どに興味は持たなかった。
しかし、何も飽きもせず隠さず喋る健二に、自分のために気を使ってくれて話してくれていることを
感じている和久は、彼に好意を持っているようだ。

「バトミントン・・・したことないから」
「そっか。じゃあ、今度遊びにおいでや。いつも勉強ばっかじゃなぁ。疲れるやろ?」
「いえ、スポーツ、苦手だから」
「大丈夫やて!楽しむことが大事なんやから。来たら俺が教えたるわ」
と、話していると健二のケータイが鳴る。

「あ、こんにちは。・・・そうですね。よろしくお願いします」
とだけ言うと、ケータイを直すと忙しく片付け始めた。
「あ、ほなまた来週な。次が詰っとったの忘れとったわ!分からんとこあったらメールでもちょうだいな。
って、今度しよな?バド。な?」

和久からしたら健二は嵐のように感じたかも知れないが、いつも玄関まで見送り、最後は必ず
「ありがとうございました」とお辞儀をするのだった。

「ぷるるぷるる・・・」
健二を見送り、玄関の鍵掛けたと同時くらいに家の電話が鳴った。

「はい、田口です・・・はい・・・大丈夫」
電話の相手が誰だか分かった瞬間、和久は居るはずもない玄関に視線を移して、
誰も居ない事を改めて確認した。



**ヤクザ映画**

「うぉー!やっぱ血が騒ぐのー!今回のは最高にオモロかったな!な?な?」
「そう?圭ちゃんの仕草の方がうちの生徒みたいで・・・そっちの方が面白いわ」
「じゃかしーわ!イテまうぞ!」
子供の様な気の強そうで弱そうな圭介と、真面目で大人しそうで気の強い美香。
外見はアンバランスだが、お似合い二人だ。

「それより、今日はいつものでいいんでしょ?」
「おう!お前のは美味いからな!」
「何言ってんの。カレーだったら二日三日もつからでしょ?」
その日は、圭介の家で晩ご飯を美香が作ることになっていた。


店先から元気な音楽が流れてくる。
「お前、買って来いよ。サイフ渡しとくけんさ。俺、外でタバコ吸っとる」
「三月のまだ寒い季節なのに外でタバコなんて、相当好きなのね。ちゃんと吸殻入れあるとこで吸ってよね!」
「わーっとるわ!タバコは相棒みたいなもんじゃ。ま、お前の次に大切なもんじゃな」

「・・・なに言ってんの?都合良いわね。はい、買ってきます」

********

「はい、お待たせしました。あ、宮下先生じゃない?」
「あ。横川くんのお母さん?あれ?今日はお休みじゃないんですか?」
「そうなのよ~。今日は急きょ、人手が足りないからって、まったく人使い荒いでしょ?あはは。
で、今日はカレとご一緒?」

「はい。日曜日で休みなんだから、たまには料理でも作れって煩くて・・・今日は女の子の日なのにですね。へへ」
「あら、今日は三月三日ね?忘れてたわ。それにしても幸せそうで。ふふふ。って、ところで、丈太郎はまた
ご迷惑お掛けしてるんじゃない?」

会話しながらも手馴れた手つきでレジを商品たちが通過していく。
「いえいえ。クラスのムードメーカーで、私にもよく話しかけてくれるんです。先週もお姉さんと買い物に行ったって」
「そうなのよ。歳の離れた姉弟だから、お姉ちゃんも可愛いみたいで」
「今月で三年生も終わりますから寂しいですよ。けど、明日は大事なテストです!丈太郎くん勉強してますかね?」
「いえ、机の上はゴッチャゴチャで・・・まぁ、たぶんいつも結果でしょうね。まったくあの子ったら・・・ってスミマセンね。
親がこんなんだから。はい、三四五八円です」

「けど、お母さんも遅くまで大変ですね。はい、じゃあ五千円から」
「ふふ。もう五時でしょ?先生が本日最後のお客様よ」



**西峰小学校職員室**

「宮下先生、採点終わりそうですか?すみません、お先にお疲れ様です」
そう新人の美香に声をかけたのは、先輩の谷口ひとみだ。
「あ、ありがとうございます。もう終わりますから」

美香は月曜日に行ったテストの採点を行っていた。新人教師というのもあって、
初めての学期末で、優先順位の低い業務は後手後手へと回っていた。
「あぁ、週明けに渡せばいいから放っておいたからなぁ・・・いかんいかん」

体育館でバスケットボールのクラブ活動が行われているものの、土曜日の午後というのは、
生徒も帰宅し、学校も静かで、教師たちは自分の作業をせっせとこなし、
美香は最後の一人になっていた。


西峰小学校の校舎の片隅には、職員室の前の廊下からも見える大きな桜の木が立っている。
満開になると、初めて見る誰もが一度、足を止めたくなるほど立派な一本桜で、
今年も例年通り、三分から五分程度開花していた。
ちょうど一年前に教師になったばかりの美香にとっては、どこか小さな心の支えになっていて、
葉桜になり、枯れてしまったあとも、時折、何かあると、その木に触れては聞こえない声で
「うん、がんばろう」と、呟いていた。


ガラガラガラ・・・
「せ、先生いいですか」

「あら、横川くん?まだ居たの?どうしたの?」
丈太郎は美香を確認するために目を上げてからは、終始、俯き加減様子はいつもとは明らかに違った。
初めのうちは、テストの結果が気になったのかな?なんて軽く思っていたが、
会話が始まると、その異変にすぐに気付いた。

「あ、あの・・・」

美香の採点していた赤ペンが止まった。
「・・・ど、どうしたの?そんな暗い顔して。何かあったの?」
「じ、実は・・・昨日、音楽の前に体育館のトイレで」
と、丈太郎は、トイレでの話を美香に打ち明け始めた。


「なんで、あいつからそんなことされなきゃいけんないんだ。もうあいつが怖いよ」
「え?何度も聞くけど、本当にあの田口くんにやられたのね?」
「そうだって言ってんじゃん!変なナイフが出てきて、持つところが青いナイフでー!」

たしかに丈太郎は、クラスのお調子者で冗談や可愛い嘘は付くが、
その手の嘘は聞いたことがない。
それに何より、放課後は我先に校舎の門を駆け抜けるような、言わば、土曜の午後の学校とは
最も縁遠い丈太郎が、わざわざ誰もいなくなるまで待ったりするなどありえなかった。
多少の疑いはありつつも、美香は、その話を信じたのと同時に、何とかこのことを
無事に収集しなければと、去年まで四年間学んできた教育学部の授業や、ゼミの教授の顔が頭を
瞬間的に過りながらも、必死に冷静を保とうとしていた。

「分かったわ、横川くん。先生、それとなく田口くんに聞いてみるから。もちろん横川くんのことは言わないから、ね」
「だ、大丈夫なの?本当にそんなことして」
「大丈夫よ。任せなさい」
とにかく美香は、丈太郎に心配させまいと必死に答えた。



二章

**エビフライの食卓**

白い息をを吐き出しながら自転車を漕いで、丈太郎の母、美智子が帰宅したのは六時過ぎだった。

「た、ただいまー」
「あ、母ちゃん!遅いよ!もう六時だよー。腹へったー」
「ごめんごめん。今日はエビフライだから許してね」
三月下旬とはいえ、まだ外は六時も回るとすっかり「夜」になっている。
「お姉ちゃんは?」
「今日はバイトで遅くなるって」
「あ、そう。じゃあ、ママご飯作るから、はい!お風呂掃除してきて!」
「えーっ・・・」
ただでさえ空腹なのにと抵抗しようとも思ったが、それが理由でエビフライの数が減るようなことがあっても面倒だと、
渋々「はぁい」とやる気なく風呂場へと向かった。

「ただいま」
「あらアナタ。お疲れ様」
美智子が着替えて、台所にたった頃、丈太郎の父親、太一が茶色のコートを着て帰ってきた。
中小企業とはいえ、商社で部長を務めている太一も今日は日曜出勤だった。
「もう四月になろうとしてんのにまだ寒いなぁ・・・ったく」
「そう?私は暑かったくらいよ。今、丈太郎がお風呂掃除してくれているから。
先にご飯でいい?もう出来るわ」
「なんで暑かったんだ?」
「チャリ飛ばして帰ってきもんねママ今日ね!」
ドタバタと、鼻に泡をつけたまま丈太郎が玄関先まで走ってきた。

「アンタ!足!濡れたまんま来ちゃダメでしょ!」
美智子は雑巾を取りに洗面所へ向かった。
「へへ。って、もう終わったー。早くエビフライー」
「お前、食い意地張ってんなぁ・・・ママに似たんだな?」
丈太郎の頭を撫でてから、太一は笑いながら着替に寝室へと向かった。

*****

「いただきまーす」
「アンタ、嫌いなキュウリもちゃんと食べなさいよ。ったく、今日はクタクタよ」
「お前も休日出勤だったんだもんな。おつかれさん」太一は横目に美智子を見ながら返した。
「あ、そういえば、今日、宮下先生に会ったわよ。明日からテストでしょ?前、言ってたやつ。
先生、心配してたわよ」
丈太郎は口にエビフライを頬張ったまま「で?」と軽く流したが、
場の空気を察してか、食事のペースが上がったようだった。

「こら、ジョウ!ちゃんと噛んで食べんか!それと、今日は食べたらちゃんと勉強するように」
「はぁい・・・・」
と、やる気のないいつもの返事で返した。
と、こんな具合に、傍から見ても幸せな家庭だった。

「あ!お姉ちゃんのご飯は?」
「さっき聞いたら夕方食べたんだって」 



**宮下美香宅**

美香は悩んでいた。
美香は学校から電車三駅。駅から徒歩一五分程度のアパートで一人暮らしをしている。
帰宅後は、部屋の明かりを付け、鞄をベッドに置き、台所でお風呂の「給湯」ボタンを押して
風呂を沸かす。その後に、パジャマ替わりのジャージとシャツに着替えて夕食の支度をする。
これが体が自然に覚えてしまった一連の工程なのだが、その日は夕食を作れそうにもなかったので、
帰り道にあるコンビニでおにぎりとパンを買ったが、まったく食欲がわかなかった。

美香を思い出していた。丈太郎の言葉や表情、その周りの職員室の風景。
その一つひとつをより鮮明に、心のうちをと。
気づかないうちに時間は過ぎていて、テーブルの上には、大学時代の教職に関するノートがズラリと散らかっていた。

「ピッピ、ピッピ、ピッピ」
風呂が沸いた音にも美香は結局、気がつかないようだった。
ノートが邪魔でテーブルの下に置いてある小さな化粧用の鏡で、美香は自分の顔を眺めた。
「私は生徒があんな話をしている時、どんな顔で見ていただろう。
横川君、田口君はどんな思いでいるのだろう・・・」
考えれば考えるほど答えの出ないループの中を美香は彷徨う反面、どこか他人事だという自分もいる気がして
苛ついた感情を覚えた。

収拾の着かなくなった美香は、ケータイ電話を手にとって圭介に電話をかけた。
「圭ちゃん大丈夫?ちゃんとやってる?」
そういう会話の方が多い二人にとって、美香の方から圭介にその手の電話そすることは珍しいことだ。

「・・・こちら留守番電話サービスです」
一気に話す気が失せてしまった美香は伝言を残さないまま電話を切った。
そうして、電源の付いていないブラウン管を眺めながらそっと目を瞑って見えたものは、満開の桜の木だった。

*****

「ぶるるるるる ぷるるるるる・・・」
「あ、圭介ちゃん・・・何で電話に出ないのよ」
「いや、気づかなかったんだ。寝てしまっててな」
また朝まで麻雀だったなと気づいたが、それには触れなかった。
「で、どうした。なんかあったんか?」
美香は無言のまま、壁に掛かった時計に目をやり、目の前の鏡に視線を移した。
前日の夜、気づくとそのまま眠りに就いてしまっていて、でこには腕の跡が付いていたが、これは後で後悔しようと、
まずは今の状況を確認しながらも少し安心しているようだった。
「・・・う、うん。ちょっと学校で、ね」

それから、昨日あったことを一通り話をした。
「それは怖い事が起こっとるのう。にしても、なんで、まず、先生たちに相談せなじゃろ?」
「だって、私が最後だったから・・・だから、明日、月曜日に状況や意見とか相談内容ををまとめてきちんと話そうって思って・・・」

「そうか。悪りぃけど、今日、遠出の現場だから行く頃には夜中になっちょるじゃろが、
とにかく、まとまり付く付かんとかじゃのうて、あったありのままを伝えぇよ。ほんで、どうしたいかを伝えろよ」
「うん、分かった。もう大丈夫だから。ありがとう。お仕事頑張ってね」
そう言うと電話を切った。いつもはだらし無い圭介が今日はどこか大きく見えた気がしていた。
そうすると、昨晩買ったパンを開けて頬張りながら、お風呂を温め直し浴槽へ向かった。


**西峰小学校職員室**

美香は、いつもより三十分早く学校に着いた。職員室から見える花壇に誰かがいる。
「お、宮下先生。早いですね。おはようございます」
「おはようございます」
生徒指導の伊藤だ。誰にどう相談しようかまだ不安だった美香にとっては好都合のことだった。
伊藤は、担任職ではなく、生徒指導室の教員として、サボり生徒の相手などをしている。
剣道部の顧問でもあり、普段はノリが良いが、責任感のある教師で、生徒からの人気も高い。
「あの、伊藤先生。ちょっとご相談があるんですが。お時間宜しいですか」
「はい。今、丁度終わったところですから」

*****

「・・・そうですか。丈太郎がねぇ」
「はい。私もまだどこか信じられなくて。
ただ、田口君も何か伝えたいメッセージがあるんだとは思うんですが分からなくて」

「そうですね。田口には、それとなく変わったことがないか聞いてみるのも良いかもしれません。
ただ、そのナイフは厄介ですね。常備してるとなると、いつ飛び出して被害が大きくなるか分かりません。
あいつらはまだ、死ぬとか傷つける本当の意味や怖さを知らないんです。丈太郎のためにも、田口のためにも、それは
早々に対応しなければいけない問題です。さっそく、校長と教頭にも出席頂き、朝の三年生の会で議題に挙げましょう。
私も参加しますよ」

美香は黙って伊藤の話に耳を傾けながら、教職の難しさを改めて感じていた。
「ありがとうございます。・・・でも、皆さんに知らせていいんですか。田口君が知ってしまったらまた何か・・・」
「それは違いますよ。あのね、こういう問題は一人の教員ではなくチームで対応することが大切なんです。
学校で学びませんでしたか。対応は複数。けど、生徒との窓口や話し合いは一対一。田口と宮下先生。
その後に、丈太郎も踏まえての解決。一刻も早い可決が望まれますが、もしかしたら時間がかかるかも知れません。
だけど、私たちみんなで話し合い、焦らずに田口の真意を探っていきましょう」

「はい。ありがとうございます」

*****

三月十日、月曜日。何事も無く職員朝礼が終わった。いつもと変わらない朝だった。
「すみませんねー。今日はちょっと、私も三年会に参加させてもらいますね」
生徒指導の伊藤がとりあえず場を取り仕切ってくれていた。
「で、教頭。今日、校長先生は?」
「あぁ、昨日から出張で、明後日まで帰ってきません。木曜日は朝からいらっしゃると聞いていますが・・・
それより、どうしたんですか。伊藤先生」
教頭の須藤は今年で五十歳になるが、その外見は、細身で低身長の校長より校長っぽく見える。
と、伊藤の一年後輩で三組の担任の山崎が続いた。
「そうですよ。どうしたんですか、伊藤先生」
「あ、えぇ。私も先ほど、宮下先生からお伺いしたんですが。宮下先生からご相談があるとのことで、ね。宮下先生」
「え、あ、はい。実はうちの生徒のことなんですが・・・」

美香は同じ三年生の担任三人と教頭の須藤、そして再度伊藤に、一昨日の放課後の話をした。
「・・・というわけで、皆さんに、先輩方のご協力を頂きながら解決したいと思っています。よろしくお願いします」

美香以外の五名は俯き加減で小さく小刻みに頷いていたところに、美香と目があった山崎が、数秒置いて話を切り出した。
「そんなことが・・・けど、まだ、事実関係が分からないから難しいですね」
「はい。だけど、横川君があんな嘘をつくなんて信じられないんです。
もしも、解決が長引けば、彼の気持ちも不安定になるかも知れないし・・・」

そこに、伊藤が強い口調で続く。
「そうなんだよ。何より、まずは被害者、加害者の二人。そして、怪我人や万が一だが、殺人につながるようなことだけは
絶対に避けなければならない。それを団結して止めるのが我々の役目です」
担任の四名は頷いたが、教師五年目の四組担任、村井が伊藤に目線を送りながら言った。
「でも、アレですよね。田口がナイフを今も所持していたらヤバいですよね。持ち検とかした方が良いんじゃないですか。
一応、全学年でしなきゃいけないってことにして。どうなんですかね」

その話しを聞いて徐ろに、二組担任の谷口が続いた。
「けど、持ち物検査なんかしたら、田口君、気づくわよね。横川君が先生に話したって。・・・だけど、事件性のあり得る
ことだし、それじゃ早急な解決にはならないわね」

この流れに伊藤も
「私が担当して、ひとクラスずつ回ってやれば、担任へ矛先は向かんでしょう。それならありかも知れませんね。
実際問題、まずは怪我などの実被害は出せませんからね。どうです、教頭」と頷きながら追加した。
そう言うと、みんなが須藤に目をやりゴーサインにような回答を期待したが、
須藤の答えはNOだった。

「いや、それは駄目です。大体、最近どこもやっていないし、こんなご時世でそんなことすると、その後の対応に困る」
「こんなご時世って・・・」と顔を顰める伊藤を他所に、村井が切り返した。
「親、・・・最近、話しに聞くモンスターペアレントってことですか」
「まぁ、そうです。親のことをモンスターと呼ぶのは好きではありませんが、プライバシーの問題や、教師の不祥事、
当然、我が校にはないでしょうがそんな問題は色々あります。学校行事ひとつとってみてもそうです。
みなさんもそのせいで、運動会の種目や学芸会でも変更があって大変だったでしょう?
それに、今回の彼らのナイフは別にしても、御存知の通り、携帯不許可な物という学校の校則には
法的権限などない。今、校長の判断なしにやるのは得策ではない。私はそう思います」

少しの沈黙が六人を包んだ。
「宮下先生。ですので、何か変わったことがあればすぐに話してくださいね。
伊藤先生も言っていたように。団結。チームワークが重要です。なかなか教師間では難しいことですが、
皆さんも宮下先生への協力体制をお願いしますね」
最後は須藤が締めてちょうど時間となった。
結局、悪い言い方をすれば、ただの「様子見」という感じではあったが、
美香は心強い仲間に前向きな姿勢でいつも通り挑もうと気合いを入れ直したのだった。



三章

**西峰小学校三年一組教室**


教室の入口の前に立った美香。
ガラス越しに和久と丈太郎に目をやるが、何ら変わった風ではかった。

ガラガラガラ・・・

席を離れていた生徒がバタバタと音を立てて席に座った。
「はい、みなさんおはようございます」
「おはよーございます!」

そのまま、出席をとり、授業をして、テストを返した。
美香からみて右側、一番端の外側の後ろから二番目。
その日のテストの結果は三十五点だった丈太郎が座っている。
逆に左手、廊下側から二列目、前から二番目の席には、当たり前のように百点だった和久が座っている。そうやって、給食、
昼休み、掃除と、拍子抜けするほどの変わらぬ教室は、美香に安心感と、不穏な予感の両方を感じさせているようだった。

******

放課後。
「今日は何事もなくて、とりあえずは良かったですね」
向かいの席の谷口が声をかけてくれた。
「はい、ありがとうございます。田口君も横川君も何も変わらないっていうか、いつもと本当に
同じで。だけど、田口君を問いただすことは出来ませんでした」

「・・・そっか。事がことだけに、タイミングも重要だけど、ちゃんと話さなきゃね。あ、で、田口君で思い出したんだけど、
うちのクラスの岸谷さん。岸谷祥子ちゃん。もう田口君は辞めちゃったけど、通っていた塾が同じだったみたいで、
今日ね、テスト返して岸谷さんが百点だったから褒めてたら、『田口君もきっと百点なんだろうな。次はもっと難しい
問題にしてください』だって。だから、何で?って聞いたの。そしたら、『私、田口君にテストで勝てないまんま、
ずっと二番で悔しかったから抜きたいの!』って。もしかしたら、岸谷さん、田口君のこと何か知っているかもよ」

「初めて知りました。ありがとうございます」
それが、何かになるだろうか、と、内心思いながらも、数少ない糸口に感謝していた。

「ま、みんなで解決しましょう。じゃ、お先に。って、まだ帰らないの。ちゃんと休まなきゃね」
「あ、はい。私も今日はもう帰ります。お疲れ様です」



**西峰小学校運動場**

夕日が登り切ったオレンジ色の空の下、美香は桜の木の前に立っていた。
まだ満開はないが、少し散った花びらも地面を桃色に染めていた。「うん、大丈夫」そう呟きながら、木に両手を当てると、
どこか落ち着いた。桜を真下から眺めた美香は、そのまま散った花びらに目をやろうとしたその時、木に何か彫ってあるのが
目に付いた。

それは、定番の相合傘だった。いつの時代も変わらないものだ。それにしても丁寧に彫ってある。そこには、
「JY・SK」の名前が、仲良く寄り添っているように見えた。「左がジェー、ワイ・・・」
美香がすぐに思いつたのは、横川丈太郎。丈太郎だった。そこから他に誰か居ないか考えてみたが思いつかなかったので、
勝手に丈太郎と仮定した。

「じゃあ、エス、ケーは・・・うちのクラスには居ないわね。うーん」
そうして、ふと頭に過った名前は、谷口から教えてもらった岸谷祥子の名前だった。
「横川君と岸谷さん、と、田口君・・・まさかね」
何の根拠もない仮定で辿り着いた厄介な答えに美香は考えるのをやめた。大体、小学校三年生には、アルファベットで
彫ることも、そんな上手に彫る技術も、何より、彫刻刀も中学校からだし、ナイフでもない限りむりな話だ。


・・・ナイフ。

美香は、この糸口の少ない問題で頭がいっぱいだった。そんなことを思いながら、もう一度、桜の木を見上げた。
そこには、
落ちかかった夕日があって、桜の花びらたちが、シルエットのようなコントラストで鮮やかに描かれているようだった。

「宮下せんせーーい。さようならー」
振り返ると、それは、美香の生徒の里崎裕子の姉と、そのクラスメイトだった。
「あれ?部活の帰り?気をつけて帰るのよ」
「はーーい。またねーー」

いつもと変わらない春の入り口だ。

*****

翌朝、その日は春一番の風が吹いた一日だった。
それ以外は変わらない毎日。それでも、美香は放課後にでも和久とちゃんと話しをしようと自分に言い聞かせ、
谷口ともそんな話をしていた。

「おはようございます、宮下先生。で、あれからどうですか」
「教頭先生、おはようございます。昨日も今日も、特に何事もなく過ぎていますが、話し合う場を設けてちゃんと話を
聞いてみようと思っています」
「そうですか。くれぐれも無理はしないように・・・」
「はい、ありがとうございます」
そんな簡単な会話を交わし、美香は四時間目の授業へ教室へ向かった。

その後も、何事も無く、教室で生徒たちと一緒に給食を食べ、昼休みとなり、美香は教室を後にした。


「あ、宮下先生!」
声を掛けたのは、生徒指導室に入ろうとしていた伊藤だった。
「ちょっと、お茶でも飲んでいく?」
「え?いいんですか?・・・あ、っじゃあ」

職員室とは別に用意されている生徒指導室には、職員室同様、簡単な台所やポットなども置いてあり、いつ生徒が来ても
良い様に、基本的には常に、伊藤は指導室に居る事が多い。
「はい、どうぞ。あ、このお部屋じゃラフにいきますね。俺、堅苦しいの苦手で」
ガハハハと笑いながら話すと、美香の前に湯気の香り立つ日本茶を置いた。

「あ、このお茶美味しいですね」
「だろ?数少ない楽しみさ。カミさんが持ってけって。まったくありがたいよ。で、どうでした。田口と丈太郎の様子は」

「あ、はい。いつも通りの感じでした。横川君も給食でお替りしてましたし、彼らのテストの点数もいつも通りでしたし」
「そりゃ、丈太郎には別の問題もあるな。ワハハハ。・・・あ、すみませんね。そうですか。でも、何もないのは良いことだけど、
早く解決しないとね」
楽観的だけど真面目。分かりやすい性格だ。伊藤曰く、こんな性格じゃないと教師をやっていくのは難しいと、以前、
話していたことを美香は思い出していた。

「そうなんですよ。ちょっと、田口君にそれとなく聞いてみようと思っています」
「そうだね。慎重にやらなきゃいけないけど、それは賛成です。だけど、本当は、村井ちゃんが言っていたように、
持ち検でもしなきゃいけないんだよ、大体。教頭は自分の立場があるからやりたくないんだろうけど、多分、校長が居たら、
やりましょう!って言うんじゃないか?」

「それって、校長の判断という事実が、ってことですか」
「あぁ。と言っても、これは俺の憶測だし、ここだけの話だけど、今までの感じじゃそうじゃないかなってね。
自分の立場もあるし、普段は良い人だから嫌いじゃないんだけど、そういう逃げ腰が、校長にはなれない理由だったり
してな、なんて思うこともあるよ、正直。ま、そんなのと、役職はあまり関係ないだろうけどさ」

美香は黙ったまま、温かいお茶を両手に持って伊藤の方を向いた。
「数件のクレームはあっても、私もそれには賛成です。勿論、話し合いで解決するのが一番良い事だと思うし、必ずしも、
それが正解とは言えないかも知れませんけど」

「そうだね。俺もそう思うよ。だって今回に限ってはナイフだぜ。もしかしたら丈太郎の嘘かも知れないけど、万が一、
生徒に何かがあってからではどうにもならない。教頭もそれくらい分かっているだろうけど、今の教頭の考えのままやって、
もし、事件が起きたら、なぁ。ないとは思うが、隠蔽することだって在り得ないとは・・・まぁ、考えたくねぇけどさ」

「そうですね」
美香は、ちゃんと和久に話を聞いてみようとようやく決心したようだった。

****

「せ、先生ぇ・・」


美香が職員用のトイレから出ると、そこには体操服の丈太郎が立っていた。
「どうしたの、横川君。また、何かあったの」
そこに居た丈太郎は給食時間までの丈太郎とは全くの別人のようだった。

「またカズが、カズが。何だよアイツ!怖いよ先生!」
「ど、どうしたの。何があったの!」
「サッカーボール借りに職員室行って、俺だけ遅れて下駄箱んとこ行ったら・・・また、アイツ、ナイフ持って立ってて」
「で、何か言われたの」
「言われない。ずっと俺を睨んでた」
「そう・・・横川君は、田口君にそんなことされるようなこと、何もしてないのね」
「する訳ないじゃん!だって、アイツのことカズとかって言うの俺だけだろ?たまに、サッカーに誘ったり、友達居ないみ
たいだから・・・なのに、なのに・・・」
「分かったわ。先生、今日、田口君に聞いてみるから。ごめんね。土曜日に話してくれたのに」

丈太郎は俯きながら、サッカーボールを持ったまま美香のもとを走り去っていった。

「こら!廊下を走るな!」
という教師の声が遠くから聞こえた。



**西峰小学校三年一組教室**

美香は、教室に向った。正しく言うなら「向かってしまっていた」という方が近い。
昼休みは残り十五分を切ったところだったが、美香の選択肢は変わらなかったようだ。
教室に戻ると、机の上に、次の体育で着る体操服が置いてあった。
「田口君。ちょっといいかな」
「え、あ、はい」
そう言うと、和久を生徒指導室に誘った。

*****

日本茶の香りがまだほんのり漂う指導室には、伊藤だけが居たが、
「おう、田口。またテストで百点だったんだってな」という言葉を残しながら、美香に瞬間的にアイコンタクトをとって、
和久と二人きりの状態にしてくれた。

「ここ座って。あのね、ちょっと確認というか、聞きたいことがあってね。いいかな」
「あ・・・・・はい」
和久はいつもの通りに、口数少なげに三十分前に美香が座っていた椅子に座った。
「どう最近、学校は楽しい?」
思わず出た言葉は核心を突く内容にはほど遠いものだった。

「え、あ、はいまぁ。なんでですか」
「うん、ちょっと質問なんだけど、もしかして、田口君、学校に持ってきちゃいけないもの、持って来てるんじゃない」

「持ってきちゃ、いけないもの。・・・それ、なんですか」
「田口君、昼休みどこに・・・

ガラガラガラ・・・

伊藤が戻ってきた。
「いやーー、すみません。宮下先生これ。じゃあ、失礼」
そのひと言と、美香にメモ紙を残してものの五秒程度で、次は閉まる方の音が聞こえた。

「あ、ごめんね」
そうし切り直しながら美香はメモを開くと、
『五時間目、俺が見ておくよ。跳び箱は得意なんでね。がんばって!』
と書いてあった。正直、教師とは想いがたい字ではあったが、少し気が楽になった。

「先生ね、実は見ちゃったんだ。さっき一階の所で」
「え・・・いや、ぼ、ぼく、ずっと教室にいたから・・・」
俯いたままで表情は分からなかったが、いつも和久のようにしか感じれなかった。
「正直に言っていいからね。先生ね、田口君を怒ろうとしてるんじゃないの」

それでも、和久の無表情は変わらないままだった。
「あ、あの。次、体育だから・・・着替えたい」
「うん。ごめんね。だけど、先生、大事な話をしてるの」
「体育、ぼく、下手だけど、通信簿悪くなる、でしょ」
「今日の体育は体育館で自習よ。だから大丈夫。それより、本当に何も持って来てない?」

「だ、だから、な、何をですか・・・」
「田口君、さっき、ナイフみたいなもの、持ってきてなかった?もしそうなら、それはいけないことだし、とっても
危ないことなの。先生ね、それを分かって欲しいの」

美香は、和久の返答を待ったが、俯いたまま返ってこなかったので、また口を開いた。
「ねぇ、田口君。先生の方を向いて」
そう言うと、静かに目線を合わせたが、明らかに目の動きに落ち着きがないことが分かった。

五時間目のチャイムを告げる音が鳴り、静かに二人はそれを聴き終えた。


「ねぇ、田口君。お茶飲まない?美味しいわよ」
「え・・・あ、いや、いいです」
「そんなこと言わないでさ。私も伊藤先生から頂いて、美味しいんだから、ね」
とにかく、美香は和久の自分の口から告白してもらいたかった。だから、落ち着きのなさそうに見える和久を
落ち着かせたかった。昼休みの美香自信がそうだったように。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

生徒指導室からは、桜の木ではなく、焼却炉と教員用の駐車場が見えた。
春一番が吹きはしたものの、ようやく春先らしい天候で、俗に言う
「過ごしやすい一日」というやつだった。

「美味しかった?」
「あ、はい。ごちそうさまでした」
「はい、おそまつさまでした。って、これ、伊藤先生のお茶だったわね。伊藤先生には内緒よ」
冗談っぽく笑ってみせたが、あまり和久に変化はなかった。

「あの、田口君。正直に言ってね」
「は、はい」
「お昼休みは、ずっと教室に居たのね」
「あ、はい。あ、い、一度トイレに行きました」
「そう。じゃあ、それ以外はずっと教室だったのね」
「はい」
美香は悩んだが、もう決めていたのかも知れない。

「分かったわ。けど、先生ね、どうしても確かめたいの。だから、嫌な気持ちをさせるかも知れないけど、持ち物、
見せてくれないかな」

*****

誰もいない三年一組の教室。
全員の机の上には私服が置いてあって、ただ一人、和久の机の上だけが、間違い探しのように、体育の授業に欠席していた。
「ちょっと置いておくわね」
そう言うと、その体操服を教卓の上に置き、机やランドセルの中、和久のポケットや、教室の後ろにあるランドセル置き用の
個人用ロッカーまで丁寧に検査し始めた。


外では六年生が持久走の練習をやっていた。運動場は時折、強い風に砂埃を巻き上げていたが、そんなことなど気にしている
場合では当然なかった。


それもそのはずだ。
結局、ナイフなど、どこにも見つからなかったからだ。


「も、もういいですか」

和久は、悲しい表情を浮かべながら美香に告げた。
「あ、うん。ごめんね」


ついさっきだ。たった今の今、昼休みの出来事だというのに、
和久は何も持っていなかった、どこにもなかったのだ。

「予定」「実行」「結果」「対策」とも言うべきその流れが途絶えた。
和久と目線の合った美香だったが、大した言葉は見つからなかった。


「あ、うん。先生の間違えたんだね、きっと。ごめんね。さっき見かけたのは田口君かと思ったんだけど、
見間違えたんだろうね。疑ってごめんね」

「あ、別に、いいです・・・じゃあ、ぼく、体育、行っていいですか」
「え?あ、うん、そうね。じゃあ着替えたら先生と一緒に行きましょう」


「パチン」

和久が閉めたランドセルの音は、とても凍てついた冷たい音のように美香には感じた。
どこかそれは、扉にカギが掛かるかのようだった。




**開かずの扉**

七畳半という広さは今の聡美にとっては広すぎるものだった。
綺麗に整った机に科目別にきちんと教科書が並んでいる。
その下には、小学校二年生の時から始め水泳で貰ったトロフィーがズラリと並んでいるが、
今では全体的に薄っすらと埃掛かっている。現在は、入り口から一番奥にあるベッド、背の高い聡美には
調度よいベッドだけが、彼女の唯一の生活圏となっていて、起きている間は、部屋の壁に寄りかかりながら
ノートパソコンばかりを弄っている。

聡美が十歳の頃、父親を病気で亡くし、一時は元気のない時期はあったが、少しずつ元気を取り戻し、中学高校と、
本来の活発で明るい女の子だった。外見はスラリとしていて男子からも人気のあったが、性格は女の子らしいというよりも、
どちらかと言えば男勝りな方で、水泳が強いという理由で行った私立百合丘女子高校では、同級生や後輩の女子生徒から
多く慕われるような存在だった。

入学して半年経った頃に、肩を痛めてしまったが、挫折することなく三年の最後の大会では、全国大会まであと一勝の
ところまでいく程の実力を持っていた。


「お姉ちゃん。ご飯置いとくよー」
扉の向こう、現実の世界から聞こえた声は、妹の智代だ。
幼い頃からずっと姉妹二人でよく遊んでいたが、智代は聡美に、姉としてだけでなく女性としても憧れに似たような尊敬の念
を抱いていた。それは、聡美が部屋に引き篭もってからも変わらなかった。
初めは、自分の憧れが壊れる恐怖か、自分の身内が、しかも、この周辺では知る人も多いほど、美しく頭も良い姉が
引き篭もっているなんて・・・という周囲の目が自分に害が及ぶのではないかと、必死に姉を説得していた。こん
なテレビでしか見たことの無いような事態になった、現実を受け入れたくない、他人にバレたくないという気持ちからか、
色々な葛藤があったが、今では姉を信じてその回復を待とうという気にようやくなれたところだった。



**西峰小学校三年一組教室**

翌朝、田口の席には誰も座っていなかった。
美香は表情を何とか保ったまま、昨日の和久への対応が原因なんだろうと、急に不安に襲われていた。

「瀬川君」
「はい!」
「田口君、は・・・、誰か知っている人いませんか」

なんの反応もない。それもそのはずだ。
以前から気に留めてはいたし、出来るだけ気を使ってきたというものの、和久と積極的に仲良くしているクラスメイトは
見たことがない。入学してきた時からそうだと聞いている。強いて言えば、丈太郎と仲良く話しているのを見たことは
あったが、今は状況が違う。美香は、チラッと丈太郎の方に目線だけ送ったが、運動場を眺めているようだった。

*****

朝の会が終わると、さっそく職員室に戻った美香は迷わず和久の家へ電話をかけた。
「ぶるるるるる ぷるるるるる・・・」

一分近くだろうか、長いこと鳴らすも繋がらず、受話器を置いた。
「どうしたんですか、宮下先生。で、どうでした、田口、今日は」
そう話しかけてくれたのは、四組の担任の村井だった。
「実は、今日、田口君、学校来ていないんです」
「え?・・・で、自宅に電話を?」
「はい」
息の詰まるような返事だった。

「声が死んでるよ。もし、心配なら、お母さんの職場にでも電話してみたらどう」
「そうですね。そうします」
気持ちが焦っていることが自分でも分かった。こんな初歩的なことも頭から抜けているなんて。
冷静になれ、冷静になれ、と、自分自身に言い聞かせながら改めて受話器を取った。

「はい。恵和総合病院、受付の山本がお受けいたします」
「すみません。田口さんいらっしゃいますでしょうか。私、田口さんのお子さん、和久君の担任で、西峰小学校の宮下と申します」
「えー、あ、田口ですね。少々お待ちくださいませ」
そう言うと、受話器からは静かにオルゴールメロディが流れていた。しかし、美香に耳を傾ける余裕はあまりなく、電
話を切って教室に向かう廊下の途中で、その曲がカノンだったことに気づいた。時間にして約三十秒程度だが、やけに長い。
美香は職員室の時計を見たタイミングとほぼ同時くらいに次の授業の開始のチャイムが鳴り始めたが、谷口が美香に
「10分自習っていっておくから」と、そっと耳打ちしてくれた。受話器を左の耳に当てながら谷口の方を見ると、彼女は
口だけが「ガンバレ」と言って、小さくガッツポーズをしてくれた。まったく、色んな人に支えられていることを実感したが、
そんな心に余裕はなかった。

「お電話代わりました。田口です。大変お待たせ致しました」
「あの、和久君のお母様でしょうか」
「はい、和宏の母でございます。いつも和久がいつもお世話になっております。で、今日は、和久に何か
ございましたでしょうか」

その淡々とした喋り方口調は、力強さのようなものを感じるようなものだった。
「はい。本日、和久君が欠席していまして。で、ご自宅にお電話しましたが、不通でしたので、お忙しいかとは思いましたが、
お電話させて頂きました」
「え?そんなことは・・・まぁ、確かに、主人は昨日から勤務で、今朝は、私の方が先に家を出ましたが・・・そうですか、
分かりました。携帯電話のに掛けてみます。
わざわざ、ご丁寧にありがとうございました」
そう言うと、美香の「分かりました」という言葉も届かないうちに電話が切れた。


**不登校少年**

「カズちゃん、行ってくるわね。戸締まりだけは忘れないようにね」
そう言うと、和久の母親、陽子は、朝の光を感じる前には、自分用の車に乗り込んでいた。
父親の義正も、陽子と同じ恵和総合病院に勤務するドクターだが、緊急外来やオペが立て続きにあると、
家には殆ど帰ることが出来ない。実際、ドクター用のベッドで寝泊まりすることが多く、その日も、陽子が義正の
着替を鞄に詰めて職場へと向かっていた。

「バタン」

和久は玄関の閉まった音を確認すると、玄関の扉に鍵を掛け、リビングに置いてある朝食に手を付けた。
そして、食べた皿を洗い、陽子が居る時は許されないが、民放のテレビを眺め、歯を磨き、パジャマを脱ぎ、
自分の部屋に戻った。
そして、洋服を着替えると、昨晩、寝る前に揃えておいた教科書やノートを取り出して、自分の学習机で勉強をし始めた。
時間は八時二十分を過ぎていた。

「ぶるるるるる ぷるるるるる・・・」

誰かから電話が鳴っていたが、和久には聞こえなかった。
それから、十数分してからか、今後は陽子に持たされた子供ケータイが鳴った。
和久からすれば、それがファーストコールだった。

「カズちゃん?ママよ。あなた今日、学校に行ってないんですって」
「あ、うん。ごめんなさい。ちょっと気分が悪くて。今、お部屋で勉強しています」
「大丈夫なの?ママの病院まで来なさい。タクシー呼んであげるから」

「あ、家に居たら、大丈夫だから。それに勉強出来るし」
「そう?お熱はないの?」
「うん。いつも通りだよ。熱、ないし、お茶もちゃんと飲んでるし。今ね、この前、佐藤先生が
作ってくれた小学六年生の算数をやってるんだ。難しいけど面白いよ」

年に数回、体調が優れなくて休むこともあった和久だが、いつも、自宅で勉強したり、工作したりと、自分の部屋で
過ごしていたので、今回の、その手の類だろうと陽子は感じた。
「そう。分かったわ。学校にはママからお電話しておきます。お昼ごはんは、出前を届けさせるから、それを食べなさい。
うどんでいいわね。もし、体調が悪いようなら、すぐにママに電話するのよ。カズちゃん、分かった?」

「うん、分かったママ。ありがとう」
そう言うと、二人は電話を切った。



四章

**訪問者**

和久の不登校二日目。
西峰小学校の職員室では、ちょうど朝礼が終わろうとしていた。
「では、三月十三日の朝礼を終ります」
出張から帰ってきた校長の池上だ。

ガラガラガラ・・・

そこには、グレーのスーツを身に纏ったスラッとした女性がいた。鋭い視線で教師たちを見渡していて、
その瞬間、美香が口を開いた。
「和久君のお母さん!」

和久の母、陽子は今年で三十四歳だが、その外見は二十代でも通用するようなルックスで病院でも、「美人ナース」と
よく言われているらしい。しかし、その反面、俗に言う「教育ママ」という感じで、もともと、思ったことは口にする
タイプではあるが、育児に関しては、時に過剰な程に敏感になり、夫の義正とも衝突がしばしばあるようだった。
「宮下先生ですね。昨日はお電話ありがとうございます。それで、和久のことでお話があるのですが、お時間宜しいでしょうか」

「はい。・・・あ、こちらへどうぞ」
応接室へ案内した美香だが、その空間には張り詰めた空気が流れていた。

*****

「バタン」

応接室では、陽子と美香、そして、生徒指導の伊藤が同席した。
「その後、和久君の調子はいかがですか。昨日は折り返し頂きありがとうござました」
昨日、あれから学校まで陽子からの電話があっていた。

「えぇ、お陰さまで、何も問題はございませんでした。ただ・・・」
「ただ?・・・ただ、なんでしょう」
俯き気味だった陽子の目と、おでこのシワだけが動くような感じで、美香を睨みつけて言った。

「あなた、うちのあの子に何をされたんですか!あの日は、和久が心配で早めに帰宅して色々と話をしました。そしたら、
学校で一人だけ教室に呼ばれて持ち物検査をされたって言うじゃないですか!それに、何もしていない息子を捕まえて、
ナイフで友達を脅したですって?・・・冗談じゃない!」
陽子は、両手を机に叩きつけると、その悔しさと怒りが混じり合ったような表情を全面に出して話を続けた。

「あの子がそんなことする訳ないでしょ!?実際に、それらしい証拠はあった訳ですか?あの子がやったっていう目撃証人は、
その友達以外に誰かいたんですか?」
「まぁ、お母さん!ちょっとスミマセン!」
大きな声ではあるが、穏やかさを感じるような口調で、伊藤が話を割って出た。

「確かに、この件に関しましては、田口・・・いや、和久君には大きな傷をつけてしまったと、非常に反省しております。
しかし、校内でも教師間で何度も話し合って、毎時間、気にとめていたんです。勿論、結果がこうでは、お母様の言い分が
正しいのも分かっておりますが・・・」
そう切り出すと、事の始まりから今までの流れをゆっくり話していった。
しかし、美香は、殆ど何も言うことが出来ず、時折「そうですよね、宮下先生」という伊藤の質問に「はい。そうです」と、
相槌を打つので精一杯だった。

*****

「・・・という訳なんです」
「分かりました。でも、私は、和久を守る母親として、『はい、そうですか』で許す訳にはいきません。私も、家庭で
あの子に学校に行くようにと説得はしてみます。ですので、学校側としましても、それなりの誠意というものを見せて
いただけますよね?」

「はい、仰る通りです。担任として軽はずみな行動だったと反省しています。是非一度、和久君に会って直接ちゃんと
謝りたいと思っています」
「本当ですよ。本当にちゃんとしてくださいよ!って、最後に確認ですが、勿論、この不登校は、学校の評価に関係する
なんて言いませんよね?」
「はい。田口の・・・あ、すみません。和久君の人間性や学力はよく分かっていますから。ただ、私たちも、学校の誠意として、
ちゃんと事実関係をハッキリさせた上で、改めて謝罪する等のことはさせて頂きますので、もう少しだけお時間を頂けない
でしょうか、お母さん」

「分かりました。早朝から失礼しました」


応接室を出た陽子は、あたかも何もなかったかのように、冷静沈着の振る舞いで、西峰小学校を後にした。 



「朝礼で言われていた田口君のお母さんですか、伊藤先生」
「校長、はい、そうです。今回、それほど大きな揉め事という訳ではなかったんですが、なんせ事実関係に確証がない中で、
田口がやったという可能性が極めて高いというところから解決を迫ったのです。しかし、どうも、そうではないみたいで。
それで、少し今、拗れているところです」

「そうですか。宮下先生からも話は伺いましたが、そうなったのであれば、生徒の心を最優先して、フォローにあたって
ください。彼女にも、授業が終わったらそうのように伝えるようにお願いしますね。あと、横川君、ですか。彼の虚言という
可能性も残っている訳です。新人教師には重たい問題ですので、逐一報告ください。学校としてきちんと対処していきましょう」

「分かりました」
「それにしても、本来はこうなるのであれば、事前に理由付けしてでも、全校で同じように行うべきだった。
単独プレイは頂けなかったですね」
「そうですね。ただ、彼女にもそれだけの熱意があったということとご理解ください。教師間では、様子見という教頭判断
でしたが、個人的にはやった方が良いなんて言ってしまったもんだから、だから、私にも責任はあります。すみませんでした」

「難しい問題ですね。教頭先生には私からも改めて経緯をお伺いするとしますが、教師として、熱意は持っていて当たり前です。
彼女には、もう少し冷静さが必要ですね。彼のお母さん、振る舞いは冷静なように見えましたが、穏やかな目付きではなかった。
それだけの自分の感情を抑えることも重要です。それは余談ですが、とにかく、生徒を中心に、学校と親御さんでひとつに
なって解決してくださいね」
「分かりました。ありがとうございます」

*****

教室では、当たり前のようにいつもの毎日だった。放課後、伊藤を中心に、美香とクラス担任達に、今朝の話をしていた。
「じゃあ、当面は定期的な電話か訪問をしてみて誠意を見せるってことでいきましょう」

「今回の件、まだ解決していませんが、本当にすみませんでした」
「いえ、これは難しい問題だから。みんなで解決しましょう!」
元気のなさげな美香に伊藤は間髪入れずに優しく即答した。そんな、なかなか顔を挙げられない美香を二組の担任の
谷口ひとみが見て続いた。
「そうだ!こんな機会だから、三年担任プラス伊藤先生で明日の夜、飲みにいきませんか。最近、息の詰まることも多いし、
どうでしょう」
「いいですねー。僕、賛成です」
真っ先に乗っかってきたのは、四組担任の村井だ。
「いいねー。じゃあ、幹事お願いね!で、山崎先生は?」
「あ、多分、大丈夫だとは思いますが、女房のOKが出たら、ということで」
「奥さん思いー。良いですね!じゃあ決まり!」
「ちょちょ、ちょっと!俺は?俺には聞かねぇのかよ!」
「だって、伊藤先生はもう家庭に見放された自由人みたいなもんなんでしょ?」
「な、なんだよそれ・・・ま、外れちゃいねぇが」

谷口達のやり取りを聞いてみんなつい吹き出してしまった。そういえば、ここ数日、一瞬でもこんな風に心から笑って
ないなぁと、美香は翌日の飲み会の気遣いが嬉しかった。



**西峰小学校三年一組教室**

「おい、ジョウ!松下にお返し渡したのかよ~」
「森山うるせぇ!どうでもいいだろ!関係ねぇよ!」

「はい、帰りの会、始めますよ。席に着いて」
日が変わって、三月十四日。教室内では、バレンタインデーほどはないが、そわそわしたような空気が教室内に漂っていた。
しかし、和久の居ないクラスに何の違和感もなく、その日も何事も無く終わった。丈太郎もいつものように元気で、
泣きついてきた二度の丈太郎はまるで、別人かのようだったと言っても言い過ぎではないほどだと、美香はどこか感じていた。

「みなさん、さようなら」
「先生、さようなら」

今の美香には、この「先生、さようなら」が突き刺さる痛い言葉にも、どこか開放感を感じるような言葉にも聞こえた。
美香は、そんな自分に、一瞬、強烈な嫌悪感を覚えた。

*****

ちょうど、一組が終わったと同時位に、二組と三組も終わったようで、廊下には多くの生徒が一斉に騒がしい音を立てながら
元気に帰宅して行った。

「先生、さようなら」
振り返ると、声を掛けてきたのは、二組の岸谷祥子だった。


「あ、岸谷さん。ちょっといいかな」
「なんですか」
「谷口先生から聞いたんだけど、岸谷さん、以前、田口君と同じ塾に通っていたって本当?」
「えぇ、そうですけど。どれがどうしたんですか?」

その小学校三年生には思えないような口調からも、学力が高いことがよく分かる。
「え?いや、田口君、最近、学校お休みしているからさ、ちょっとね」
「ふぅーん。きっと、田口君、家で勉強してますよ。五年生とか六年生くらいの問題集とか」
「そうなんだ。よく知っているわね。あのさ、田口君って、なんで塾を辞めたか知ってる」
「ママに言われたからって言ってた。家庭教師を雇って、自分に合った勉強するって。
いいなぁ。私も、家庭教師の先生に教えてもらいたいー」
「岸谷さんは十分、勉強出来るじゃない。ってね、最近、田口君に会ったりしてないよね」
「うん。だって、学校じゃ話さないし、塾ももう居ないから」
「そうだよね。ありがとう。気をつけて帰るのよ」
「残念でしたー。これから塾に行くんですー!」
そう言うと、小さな体に、沢山の教科書を詰め込んだランドセルを背負って、帰宅して行った。
美香は、その背中を眺めながら、桜の気に掘ってあった「SK」のイニシャルが一瞬、
脳裏を過ぎったがすぐに、関係ないかと、何もなかったように消えていった。



**横川家リビング**

いつものようにスーパーまるよしの惣菜がベースの夕食を、きょうは三人で囲んでいた。

「あんた、ちゃんと全部渡した?」
「渡したよ!つーか、なんだよ!ほわいとでぃって!今月の小遣いすこし増やしてよ!」
「そうねー。パパに相談してみようかね」
「絶対だよ!・・・ったくー!あ、母ちゃん、お茶取って」
美智子は息子の憤慨ぶりを見ながらクスクスと笑いながら答えた。
「ジョーぉ!今年は何個返したの?」
「えっとね、学校の女子に五つと、母ちゃんと、智ねぇと、聡美姉ちゃん」
「もう渡したの?」
「・・・ううん。まだ。あとで渡す」

「はい、お茶。あぁ、そう言えば、同じクラスに田口君って居たわよね」
「え?あ、うん。居るよ。なんだよ、急に!」
「何よ急に、変な子ね。今日、宮下先生に会ってね。田口君、学校来てないんでしょ。
それで、先生と、同じ学年の、えー、ムロイ先生・・・だっけ?も一緒に」
「村井!で、一緒にどうしたの?」

横で聞いていた智代は、丈太郎の焦った感じに違和感を覚えていた。
「え?うん、田口君の家に行くんだか、行った帰りだったか、たまたま会ってね。
それで、少し話したんだけど」」
「何を?」
「最近、家での横川君の様子はどうですか。って」
「で、何て答えたの?」
「いつもの通り、元気だけのバカちんです。って」
美智子は、小学生が良く見せるような「照れ」のようなものだと感じながら、
丈太郎を誂うように茶化した感じで答えたが、丈太郎の表情に余裕はなかった。

「それだけ?会話したのそれだけ?」
「それだけ、って。うん、ママ、急いでいたし。けど、また今後お話したいことがあるのでー、とか言ってわ。
どうせ、また、あんたの成績についてでしょ?まったく良い迷惑だわ。って、どうしたの?学校で何かあったの?
浮かない表情して。何かあったら言いなさいよ」
「な、何もないよ!大丈夫!ったくもう!」
そう言うと、もう湯気の消え掛けたお茶を一気に飲み干した。と、その時だった。

「カチャ。ギイィィー」

二階から扉の開く鈍い音がした。


リビングには僅かながら、本来なら心地良いはずの優しい緑茶の香りが静かに広がっていた。



五章


**居酒屋バンケット**

八人程度座れるカウンターと四人掛けのテーブルが4卓ある、アジアン調の居酒屋バンケット
は、幹事を務めた村井のいきつけの店だった。

「・・・そうですか。今日もダメでしたか」
「はい。今日は、山崎先生が同行して下さったんですが、やっぱりダメでした」
「で?そのまま山崎先生は帰宅されたんですか?」
「あ、はい。今日はお子さんの誕生日プレゼント買いに行かなきゃいけないからって」

「相変わらず、良い旦那さんですね。僕もそうなりたいですよ」
「村井ちゃんなら大丈夫さ。俺みたいに見捨てられてなければ、な」
「伊藤先生、なに言ってるんですか。あれだけ奥さんから愛されているのに、まったく」
谷口はそう言いながら、空になった伊藤のグラスに焼酎のお湯割りを作って渡した。
四人の会話の中はどこか、焼酎のお湯割りの様に、重たいお湯と、軽くい焼酎を混ぜてしま
うような空気が流れていた。

「それにしても、田口の母さんも、協力してくれているのにダメなんて、あいつ、そんなにショック
だったんだろうか。なんか、大袈裟なようにも見えるが」
伊藤は、目の前の焼酎をゆっくりと啜って言った。
「でも、やはり、私のやり方が悪かったんだと思います。今度、横川君のお母さんにでもそれと
なく聞いてみようと思うんです」
「え?丈太郎が嘘言ってるかも知れないってこと?」
「そうは思えないんです。あれだけ必死になるってことは、本当だと思うんですけど、けど、
実際に田口君はずっと教室居たようだし・・・」
「え?それってでも、誰か教室に田口が居たこと証明出来る人っていたですか?」
骨付き唐揚げの骨をしゃぶりながら村井が聞き返した。
「いえ、五時間目が体育ってのもあって、女子は更衣室に行ってましたし、男子はほとんどが
体操服に着替えて外に行っていたみたいで、誰も見てないみたいでした。それに、私が教室に
戻った時は田口君だけだったけど、一人でノート広げて勉強している様でしたし・・・」
「なんですかね、それ。何か謎解きゲームみたいすね。けど、持検されたくらいで、あいつが不
登校になるんすね。大体、昔から、深い友達も作ろうとする感じじゃなかったし、唯一、横川と
くらいなもんだったんでしょう?・・・なんすかね?それだけ、担任から疑われたことがショック
だったのか、元から不登校になるための作戦・・・とか?」
そう言いながら、しゃぶっていた骨を枝豆の殻入れの中に入れようとする村井に谷口が呆れて言った。

「そんなことして、何のメリットがあんのよバカ!成績成績って言ってきた田口君なのに・・・
けど、確かに謎よね。どっちも正しいって訳じゃないんだから、どちらかが嘘を付いているんで
しょうけど、どっちなのかも、なんでなのかも分からないわね」
「そうだね。宮下先生が言うように、一度、丈太郎の母親にでも最近変わったことはないかなど
聞いてみて、どちらかの確証を得るまで慎重にやってくしかないですね」 



**宮下美香宅**

「バタン」

帰宅すると、不在通知が入っていた。宛先は美香の父親からだった。美香はそれをテーブルに置くといつもの
ジャージとシャツに着替えて、お風呂の給油ボタンを押して、それを待つ間に、再配送の電話をした。

「ピンポーン」

美香は一瞬驚いたが、それが再宅配の人でないことと、おそらく恋人の圭介だということが分かった。
「よぅ。・・・つか、お前、飲んでたろ?臭うぞ?」
「え?あそう?今日は先生たちの飲み会があって、今お風呂沸かしているところよ」
「マジか!そりゃちょうど良かった。一緒に入るか?な?」
「何言ってんのよ!今日寒かったっていうのに、この狭いお風呂にどうやって入るのよ!って、圭ちゃんも仕事帰り
なんでしょ?汗臭いもん。先に入っていいからさっさと入っておいでよ」

*****

「おう、上がったか」
「んもう。ちゃんとお湯なくなってたら足しといてよ。すんごい少なくなってたよ」
「じゃかしい!風呂ちゅうもんは豪快に入らにゃ疲れも取れんもんじゃ」
「何言ってんのよ。って、今日は行かなかったんだね。珍しい」
それは確かに珍しいことだった。圭介の土曜の夜と言えば朝まで麻雀と決まっているからだ。
「いや、ほら、今日は、チョコレート返す日じゃろ?」
「チョコレートは返さなくていいんだよ。ってか、本当は昨日なんだけどね」
「じゃかしい!あ、いや、チョコと一緒にもらった帽子は嬉しかったしの」
「よかった。学生時代に友達に教えてもらった帽子屋さんまで買いに行ったんだもん」
「あぁそうか。まぁええ、とにかく、今年はコレじゃ。ほらよ」

そう言うと、美香に渡したものは「笑い袋」だった。
「なによこれ?」
「いやー、あのよ、お前、最近元気ねぇじゃろ?やから考えた結果がこれじゃ!」

そう言われると、美香は呆れたのか、泣いているのか。美香は黙りこみ俯いてしまった。
風呂場の換気扇の音だけが静かに流れていった。その空気にさすがの圭介も気がついた。

「あ!いやーーよぉ!ちゃんとすっから!め、め、メシ奢っから!な?お前が好きじゃって言ってたパスタの店に連れて
くけん!な?何でも食ってええから!」
慌てながら弁解している圭介に美香は黙ったまま飛びついて言った。

「ありがとう」

「え?あ!お、おう。あたり前じゃ!なんやお前。泣く奴があるかよ」

風呂上りの二人。暖房も付けて温かい部屋であることを温度差で白くなったガラス窓が証明してくれた。
美香を泣き止まそうと鳴らした笑い袋も笑い終わると、そのまま二人の甘く荒い吐息だけが零れていった。



**不良との決別**

「バタン」

三月十六日日曜日、午前十時を回ったところだ。
冷蔵庫を開け閉めして、美香は朝食の準備をしていた。

「ピンポーン」

次はちゃんと再送の配達だった。そのやり取りが終わると、その音に目が覚めた圭介が、相も変わらず寝癖でボサボサに
なりながら起きてきた。
「ふぁ~あ、眠みぃ。おはようさん」

*****

二人はいつものように、テーブルに座り朝食をとっていた。
「圭介ってさ、何がきっかけで不良始めたの?反抗期とか?」
「なんじゃいきなり?」
「あ、いや、うちの生徒も反抗期とかだったりするのかなぁって考えていて・・・」
「反抗期ってもあったじゃろけど、俺の場合は単純に、先輩が格好良かったり、って、大体、昔っから喧嘩っぱやかった
からのう。強い者が勝つ!至ってシンプルじゃろ?」
「そんなもんなのかねぇ。・・・怖い少年時代ね」

「あれはあれで、輝いとった時期でもあるんじゃ!うっさいの!って、勉強と泳ぎばっかじゃったお前に言われとうないわい」
「何言ってんのよ!勉強はそこそこだったけど、水泳はすごかったんだから!中学校の時に一度も勝つことどころか、
憧れだった工藤さんって人が居て、高校の最後の大会で初めて勝ったんだから!大きな目標に立ち向かうことの大切さを
私は学んだわ!」
「なーに言っとるんじゃ。そこがピークで大学じゃ全く駄目じゃったんじゃろ?」
「あ、諦めだって肝心なの!って、逆に圭ちゃんだって、何がきっかけで不良を卒業したの?仕事始めたから?」
「なんや?また急に話を戻してからに。・・・ふぅ、ごちそうさん」
圭介は、自分の茶碗注いだお茶を飲み干した。

「って、ま、仕事もあったじゃろけど、今じゃけ言えるが、そん時、付きおうとる女がおっての。お前と知り合うてすぐ
別れたんやがの、広島からこっち来てすぐくらいから付き合うとっての、そいつが卒業させてくれたんよ。全くかまって
やらんと、今じゃ申し訳なくも思うがの」

「そうなんだ」
美香は、圭介の過去の女性に関して聞いたことがなかったなぁと、ふと思いながら聞いていた。
おそらく、正確には、聞かないようにしていた。という表現の方が近いだろう。

「って、もう会うたりしとらんぞ!」
「分かってるわよ。そっか、じゃあ、その人のお陰だ。それにしても、沢山喧嘩したんだよね。
何度も捕まったって言っていたもんね。それって、大体、何して捕まってたの?喧嘩?万引き?」
「全部喧嘩じゃな。あの時は、今、お前のクラスの生徒が騒いどるナイフをいつも持っとって、
それで、傷害が多かったの。ま、滅多なことじゃ使いわしとらんじゃったがの」
「そうなんだ。きっと、その時会ってたら、絶対、好きになってなってなかったんだろうな。
で?そのナイフは今でも持ってるの?特攻服みたいに取ってあるの?」
「あれは、不良との決別を誓って、散々迷惑かけた、その当時の女に渡したな。「もう二度と使わない」つっての。
ま、その後すぐ別れてしもうたがの」

「そうなんだ」
「なんじゃ、お前。自分から聞いとって、興味があるのかないのか分からん対応じゃの!」
「いや、興味はあるけど、過去の女性のことはあまり聞きたくないなって」
「・・・そうか。じゃあヤメじゃ。まったく、女ってもんはよう分からん」


「・・・好きよ。圭ちゃん」

「それは分かっとる!」
「何よ偉そうに。私が居なきゃダメなくせに」
「じゃかしいわ!」

「そうだ!午後からショッピングにでも行こうよ!パスタ屋さん!連れてってくれるんでしょ?」
「よう覚えとるの!ほな、バッチリ化粧でもしてこいや」

この日は、とても暖かく穏やか一日だった。


**諸刃のサクラ**

「はい。横川ですけど」
「もしもし、ジョウくん?・・・田口だけど」

*****

翌朝、美香は久しぶりに清々しい気持ちで出勤することができた。
どういう訳か、和久に続いて丈太郎まで不登校になってしまったことを知るまでは。



六章

**西峰小学校職員室**

和久に続いて丈太郎の席までも空席になっていた。
しかも、丈太郎の場合は、その理由さえ皆目見当も付かなかった。

朝の会を早々に終え、急いで職員室に戻った美香は、丈太郎の家に電話をしたが、誰も出ることはなかった。
その電話は留守電になることもなく、焦りが募る規則的な音だけを受話器から流し続けていた。苛立を抑えその電話を
切ると、そのまま、母親の美智子のパート先へと掛け直した。

「はい、ありがとうございます。スーパーまるよしです」
次は三コールしないうちに繋がった。その威勢の良い年配女性の声ですら、美香には小さな安心感のある声にさえ
聞こえていた。それから、レジ打ちをしている美智子を呼び出してもらうのには長い保留音を聞かされた後と
なってしまったが、そんなことはどうでも良く感じていた。
「はい代わりました、横川です」
「あ、西峰小学校の宮下です。お忙しいところ失礼します」
「あら、宮下先生?どうされたんですか。丈太郎がまた何か?」
美智子は、丈太郎が欠席していることなど微塵を知らない様子だった。

「いえ、今日、横川君が学校に来ていないもので、ご自宅にお電話したのですが、ご不在だったので、
お忙しいと分かりつつも、お電話させて頂いたんです」
「え?丈太郎が?・・・学校大好きのあの子が・・・何でしょうね。すぐ確認してみますが、ご迷惑おかけして
本当にすみませんね。先生だってお忙しいのに・・・。きっと、ズル休みしてみたかったーとか、そんなもんでしょう。
ちゃんとお説教しなきゃね」
「そんな理由だったら良いのですが・・・最近、お家で何か変わったようなご様子はございませんでしょうか」
「いーえぇ。いつもと何も変わらないバカちんですよ。ははは。本当にごめんなさいね。先生にそんなに心配かけてしまって」
「いえ、それは構いません。もし、何かあるようでしたら、何でも構いませんので、学校までご連絡くださいね。
宜しくお願い致します」

美香は美智子の思うような理由であって欲しいと心から願ったが、きっとそうではないことをどこか感じ取っていた。

*****

翌日、朝の会が始まる前に学校に電話が鳴った。相手は美智子からだ。
「おはようございます。横川君、昨日どうでした?」
「いやーね、なんか学校には行きたくないって、言い張って聞かないのよ。逆に何か学校で変わったことはなかったのかしら?
なんかあんな息子は初めて見るようで」
「実は・・・」と、今までのことをひとつずつ話していこうとも思ったが、電話越しに伝えるのにはと躊躇い、「今日の夕方でも
お時間ありませんか」と切り出した。美智子は、「それでは夕方学校にお伺いします」という回答で電話を切った。

伊藤をはじめ、同学年の教師間では、細かい進捗や相談はしていて、生徒への対応など行ってはいけたが、学校の対応は
あくまで、慎重に進めるとのことだった。おそらくは、年度末というのもあって、そのまま春休みを迎え、クラス替えの
ある四年生になればまた状況も変わるだろうといったような雰囲気があった。

*****

ガラガラガラ・・・

夕方、時間の十五分も前に美智子は職員室を訪れた。
美智子が学校に来ることは、学校行事を除けば、息子の喧嘩やテストの点数についてなど謝るような内容が殆んどだっただけに、
今回はそうではないにも関わらず、その時のように低姿勢な感じで美香を探していた。

「横川君のお母様で?今、宮下先生を呼びますので、こちらへどうぞ」
偶然通りかかった谷口が、応接室へ美智子を案内してくれ、校内放送で、美香を職員室へ呼び出した。

「あ、お母さん。すみません」
「いえいえ、私こそ、早く来すぎちゃったわね。ごめんなさいね。って、伊藤先生まで。なんだか、今日も、喧嘩か
カンニングかなんかで呼ばれている気分です」
「わははは。確かに、私とお母さんが会う時は、そんなことばかりでしたもんね。けど、今年はまだ1度もありませんよね。
あいつも成長しているってことでしょうね」
「ふふふ。そうだと良いんですけど、でも、今回、なんで急にあの子は学校に行きたくないとか言い出したんでしょう。
聞いても教えてくれないしですね」
「それと直結するか、まだ分からない部分も多いのですが、今日、お呼びしたのはですね・・・」
そう言うと、和久の時とは違い、伊藤ではなく今回は美香がその経緯を細かく話し始めた。


**それぞれの父親**

一台の高級イタリア車を運転しているのは和久の父親の義正だ。隣には妻で和久の母親の陽子も同乗している。
二人で職場から帰るのは久しぶりのことだった。
「そう言えば、君がこないだの休みの日に、うちの新人の坂井君がウチに行ったらしいけど、誰も居なかったって言ってぞ?
前も不在通知が二通も入っていたし。最近、何しているんだ?」
「家に居るわよ!ただでさえ最近、カズちゃん学校に行こうとしてないって言うのに」
「ん?なんだ?和久は学校に行ってないのか」
「そうよ!前にも話したじゃない!ちゃんと父親らしいとことも見せてよね!」
「ちゃんとしてるじゃないか。・・・大体、家での勉強の方が捗るからなんじゃないのか?」
「それじゃ、通信簿に影響が出るじゃない!だから、学校に行くように言ってるの。元々は、担任教師が、
カズちゃんだけに持ち物検査して、それがショックでって言ってるんだけど」
「なんだそれ?まぁ、まだ三年生だからそこまで通信簿なんて影響しないだろうけど、学校側は何かしてくれてんのか?
弁護士の先生に当たっておくか?裁判で早めに片付けた方が良いんじゃないのか?」
義正は、ブレーキの静かに踏み、目の前を赤信号に視線をやったまま答えた。

「とりあえず、そこまでしないわ。あの子のためにならないし。それに、担任も反省したんだか、ほとんど毎日、うちに
訪問してくれたり、和久宛に手紙くれたりしているわ。私にもその進捗の連絡もくれているし」
そう言うと、和久や学校で伊藤から聞いた内容を陽子なりに纏めた話を義正にして聞かせた。
二人を乗せた車は、豪快で快適な音を立てて青に変わった信号を通り抜けて行った。

*****

「そうだったんですか。今まで見てきて、あの子がそんな嘘を付くとは思えないし、かといって田口君、以前はうちにたまに
遊びに来ていて仲良しみたいだったからそんことも・・・」
真剣身のある表情で美智子は何かを考えているようだった。
「うちの子は、私に似て元気だけが取り柄でしょう?けど、それで良いって、いつでも、それだけあれば良いって、
今の夫とも話してきたんです」
「・・・今の?」
頷くだけの伊藤に対して美香が聞き返した。
「あ、そうなんです。あまりこういう場で言うのもどうか分かりませんが、実は、丈太郎は私の実の子じゃないんです。
私は前の夫と離婚した際に、聡美と智代の二人の娘を引きとって、今の夫も前の奥さんと離婚して、その時に丈太郎を
あの人が連れていて、そして一緒になったんです。あの家を買ったのも、私たちが家族である、私たちだけの居場所を
作ろうって。だもんで、私も夫もせっせと働いているんですけどね。だから、そんな家庭環境でしょ?
だから、まだ小さい丈太郎には、人一倍気を使ってきたんです。いつでも笑ってくれてるようにって」

「そうだったんですか」
その後も、美智子は聡美の引き籠りのこと、再婚相手の太一がいかに家族想いで、三人の子供を同じように愛してくれている
ことなど、家庭の事情を話してくれた。

「すみません。学校には何も言ってなかったもので」
「いえ。ありがとございます。これは守秘義務として決して他言しませんからご安心されて下さい。ね、宮下先生?」
「はい、もちろんです」
「なんか、伊藤先生にそう言われると何でも大丈夫のような気になってくるから不思議です。先生、教師辞めて、
カリスマ占い師にでもなると良いんじゃないですか?何言っても当たっているような気になりそうですもん」
「あははは。学校をクビになったら検討しましょうかね。ま、そうなったら、妻からも家族もクビにされそうですけどね」
などと、双方、今の状況を飲み込んだ上で、あまり深く考えずに、和久同様、定期的な訪問を行いながら、理由の確証を
探していきましょうということで話は終わった。

美香はその日の帰りに道、ふと、自分の父親のことを思い出し、帰宅すると、ホワイトデーのお礼の電話を掛け、
美香にしては珍しく、二十分程、父親と会話を交わしていた。



**西峰小学校三年一組教室**

三月十九日水曜日。
美香が教卓の前に立つといつもと生徒の様子が違っていた。和久と丈太郎が欠席していることは昨日と変わりないが、
出席をとっていても、一部を除く多くの生徒がいつもの元気がない。それどころか、美香を睨みつけているようにも
見える生徒さえいる感じだった。

「みんなどうしたの?今日はみんな様子が違うわよ。何かあったの」
この凍てついた空気の中、美香は生徒に投げ掛けたが、何の返事もなかった。
すると、女子生徒の松下友紀恵が声を手を挙げた。
「どうしたの。松下さん」
「先生。なんで、横川君に学校に来れないようにしたんですか?」

美香は友紀恵が何を言ったかさえ、一瞬理解出来なかった。
「え?何言ってるの?先生は横川君にも田口君にも学校に来てもらいたいわよ」
すると、丈太郎の親友である森山翔太が立ち上がってそれに続く。
「だって、昨日、ジョウからメール来たぜ!本当はやってもないのに、田口を苛めたって言われて。
ジョウのせいで田口が学校に来れなくなっているのに、なんで、ジョウは来てるんだ?って。だから、俺、学校行けない。
もう行きたくないってメールが来たぞ!・・・返信しても、それからの返事はねぇし、電話しても圏外だし!先生!卑怯だぞ!」

「何を言っているの!私がそんなこと言う訳ないじゃない!」
「だって、ジョウ本人からメールが来たんだ!そうじゃねぇのかよ!」
「違うに決まっているでしょう!分かりました。ちゃんと横川君に話を聞いて、みんなにも報告するし、みんなも、
横川君と連絡することがあれば、そのことを本人に口から聞いてみて。ね、お願い。分かった?」

気丈に振る舞う美香であったが、今すぐにでも教室を飛び出して丈太郎と、いや、和久と三人で話がしたいと、
押し潰されそうな気持ちを必死に抑えていた。

*****

「バタン!」

職員室に戻った美香は、すごい勢いで職員室の扉を閉めてしまった。
まだ、朝の会が終わっていないクラスの方が多く、そこには数名の教員しか居なかったが、その全員が美香の方を思わず
向いてしまう程の勢いだった。そのまま、受話器を手にすると、丈太郎の自宅に電話するも、ただ淡々とこなして終わる
事務作業のような決まった呼び出し音だけが美香の耳には聞こえていた。その焦りが募る規則的な音は、焦りから怒りに
変わり、さらに悲しさに変っていった。今にも泣き出しそうな美香は、そのまま受話器を置くと、大きく深呼吸した後、
昨晩電話で会話した父親、誠一郎の「頑張れよ」という言葉を思い出し、心の中で「うん、頑張る」と言うと、
そのまま美智子のパート先へと電話を掛け直した。

「はい、ありがとうございます。スーパーまるよしです」
「あの、西峰小学校の宮下と申しますが、横川さんに御用があってお電話しました」
「あら?丈太郎君の先生?今日は美智子さんお休みよ。前、日曜日出勤したから、今日休み取ったはずよ。ご自宅に
掛けられたらいらっしゃるんじゃないかしら」
「そうですか・・・分かりました。ありがとうございます」

そんなやり取りを繰り返すうちに他の教員たちが朝の会を終え、一旦職員室へと戻ってきた。
「お、宮下先生。なんか元気ないね。大丈夫かい」
そう声を掛けてきたのは山崎だった。
「あ、昨日は田口君宅ありがとうございました・・・」
「いえ、みんなでやることですからね。昨日も結局、誰も出てきませんでした。どうも車庫には車は止まっていたんです
けどね。それにしても、顔色が悪いですよ。どうかしたんですか」
美香は出来るだけ覚えた絶望感を隠しながら、今朝の話を始めた。そのうち、山崎に用事があった伊藤も加わって話を
聞いていた。
「お、伊藤先生。今日は、六年一組の担任代行だっけ?」
「そうです。それで、ちょっと授業のことで教えて欲しいことがあってここ来たんですが、なんか訳の分からない状況に
なってるなぁ。本人か家族には連絡ついた?」
「いえ、自宅は不在で、今日はお母さん、パート休みだって言われて・・・」
「そうですか。これは一旦、校長に相談して、学校としての対応を考えた方が良さそうだな」
「でも校長は、今日まで出張でしたよね。明日でも私と伊藤先生も立会いますから相談して今後の対策を考えましょう。
きっと、田口の問題と横川の問題は繋がっているはずです。どちらかが解決すれば、もう片方も自然と解決策が見えてくるはずです」
「そうだね。先生一年目で、この状況はとんでもなく辛いと思うけど、今は辛抱の時。一緒に色んな人を巻き込んで
解決していきましょうね。今、状況が状況なだけに、授業が辛い時はすぐに言いなさいよ。分かったかい?とりあえず、
休み時間と放課後、時間を見て丈太郎か母親に連絡をつけてみましょうね」
「はい。ありがとうございます。そうします」
そう返したものの、今の美香には、二人の言葉はあくまで「言葉」にしか過ぎなかった。

*****

教室に戻り授業を始めた美香だったが、授業らしい授業にはまったくならなかった。
昨日まで半分以下とは言え、質問に挙手していた活発なクラスだった面影はどこになく、ただ、美香の声とチョークと
黒板が打つかる音がカツカツと聞こえるだけで、閉めきった教室の中では、教科書が捲れる音さえ聞こては来なかった。
若しくは、美香には届いていなかっただけのかも知れない。そんな時、美香はふと、圭介の他愛のない言葉を思い出した。
「正義は勝つ!最強の教育じゃ!」まさか授業中にヤクザ映画について思い出すとはと思いつつも、小さくとも大きな
気持が沸き上がってきた。「私は勝つ!しっかりしなきゃ!」


「はい!じゃあ、ここの問題!前に来て遠藤君。問いてみて」
説明をしながら振り向いて、笑みを浮かべて、いつも一番に挙手してくれていた遠藤に名指ししてみた。
しかし、その返答は至ってシンプルでいて今の美香には強烈なものだった

「・・・わかりません」

こんな具合で一日が過ぎていった。この長い一日は、一人で授業しているようで、まるで、生徒たちにとっての今の美香は、
あくまで「せんせい」という言葉にしか過ぎないようだった。

*****

結局、丈太郎とも美智子とも連絡は付かず、放課後、美香は丈太郎宅を訪問することにした。
時間は午後五時を過ぎた頃だろうか。陽は延びたとは言え、オレンジの空がくれたものは美香の足に
纏わり付いている様にも見える疲れ切った細く長い影だった。



七章

**西峰小学校校長室**

「そうですか。それは大きなことになりましたね。原因究明していかなければいけませんね。
それで昨日はちゃんと授業になったのですか」
「はい・・・すみません。正直、辛かったです。黙って聞いてはくれてはいましたが、誰も挙手さえないし、問題を当てても、分かりませんの一言で終わってしまって。それに、横川君のご自宅にお電話したり訪問もしたのですが、結局、誰とも・・・」
伊藤と山崎と校長の池上の四人で会話をしていた。それも教師間での会議ではあまり使わない校長室でのことだった。これはどうやら伊藤からの提案だったそうだ。
「とはいえ、今日が木曜日でしょ?だから、今日を入れても木、金で、月曜が終業式だからそれまで耐えれば、春休みになってまたひとつ変わることはあるでしょう」
そう言ってのけたのは山崎だった。彼はそう言うと、横目で美香の顔を覗いてみた。美香のまばたきの回数が著しく減っていて、まるで細切れの映像の連続のようだった。ショックを受けているのだろう。それを確認するとその奥に居る伊藤に目を移した。ほん一瞬のことだった。

「いえ!だからですよ!だからこそ!あと三日だからしかないからこそ、学校としてちゃんとやろうってことですよ!違いますか?それでもアンタ教師か!・・・そうでしょ?ね?校長!」
その言葉、というよりも怒鳴り声のような勢いに、山崎は伊藤に移した目を外せずにいた。
それと同時に美香も首だけが伊藤の方をゆっくりと向きながらその有り余る理解に感謝の言葉すら出そうになった。
「ね!そうでしょ校長!・・・ったく、長い付き合いっていうのに、アンタがそんなこと言ってどうすんだ。仮にも学年主任でしょうが!ガッカリさせんでくださいよ。で、どうしましょう校長。どうしていきましょうか」
伊藤の勢いある空気は完全に校長室を飲み込んでいて、池上も飲み込まれた一人となっていた。
「えー、あ、そ、そうですね。伊東先生の言う通りです。ここまで来ると、時間が解決と言ってはいられませんね。今日は伊藤先生が三年一組に入ってもらえませんか。宮下先生は、今から私と出ましょう。生徒が登校する前に。そして、伊藤先生が朝の会で、彼ら二人の出欠を確認してから、電話を入れ会いに行きましょう。出ない場合も行くだけ行って、今日は一日、それだけに集中しましょう。私も付き合いますから。どうですか」
「はい!ありがとうございます。宜しくお願いします」
「では私は、教頭先生に連絡を入れて調整しておきますから、八時に私の車に来なさい」
「はい。分かりました」

*****

そのまま退室した三人は、生徒指導質、伊藤のホームへと移動した。

「ったく!・・・これで査定とか評価とか響いたら責任取ってくれよな!」
「あははは。そうだな。今度、家に行った時に、奥さんや子供の前でお前の勇士でも熱く熱弁するさ!」
「頭痛が痛いじゃないんだから・・・って、熱い熱弁だったら相当熱いんだろうな。まったく、お前と一緒に居たら、教師生活が危うくなってくるよ。こんなに真面目一本でやってるってのに」
「すまんな。だからこそ効果があんだよ。にしても、素晴らしい演技だったなぁ。それに、校長室選んだのもさすが山崎先生。あれじゃ他の先生ビビるよな?だははは」
まるで、ハイタッチでもしてジョッキでビールを飲み干しそうな達成感のある会話だった。

「え?演技ってなんですか?」
状況の飲み込めない美香はケラケラ笑い合う二人を交互に見合いながら聞いてみた。
「ごめんね。宮下先生。これは、ある種の交渉だよ。普通に言ったって、あと三日でスルーされちゃかなわんからね。だから、先に潰して、選択肢をひとつにしたんだよ」
無意識に右に左に振っていた首が徐々に上に下に振る頷きの動きに変わりながら、美香はこれで何かが分かるかもという安心感と、教卓に上がらなくて良いという安堵感を覚えていた。

「・・・で、私が悪役って訳。けど、あの校長の困った顔はなかったな」
「お?言うねぇ山崎先生」
「そんくらい言わせろよ。けど、あの校長は、その辺はきっとちゃんとやってくれるだろ?な?」
「そうだな。そう信じてるよ。けどまぁ・・・」
「けどまぁ・・・なんだよ?」
「ん?あ、いや、なんでもないさ」
くすりと笑いながら伊藤は朝の会の準備や打ち合わせを美香と始めた。



**ホットコーヒーと最優先で守るもの**

とりあえず、二人を乗せた車は、一番会える可能性の高い丈太郎の母親、美智子のバイト先の近くの喫茶店を目指していた。池上は運転用の眼鏡に変えて、「シュッ」と音を立てて閉めたシートベルトのような姿勢で、どんな車が走っていようと右折する時と路上駐車している車を交わす時以外は決して追越車線を走ることはなく、法定速度を破ることもなく、運転中は、いつにも増して「教師」という感じがしていた。

「今日は会えそうですか」
「はい。多分、横川君のお母さんには会えるとは思うんですが、他は・・・でも、平日のこんな時間に行ったことはないので、いらっしゃることを願っています。それにしても、本当にすみません。出張帰りで学期末のこんなお忙しい時間に」
「いえ、これも重要な仕事です。むしろ、今は最優先事項ですよ。・・・それにしても伊藤先生みたいな先生がうちの学校に居てくれて本当に心強いですね。そう思いませんか?」
「あ、はい!もう本当に」
「しかしまぁ、校長まで食って取るつもりかね?・・・だけど、宮下先生には彼のような教師を目指して欲しいものです」
「・・・って、校長先生。それっ、て?知ってらっしゃたんですか?」
「これでも教師生活30年なんですよ?あんな芝居なら見抜けますよ」
と言うと池上の顔は少し緩んで微笑んだ。美香は池上のそんな嬉しそうで優しそうな笑顔を見たのは初めてのような気がしていた。

「ピピー ピピー」
携帯電話を開くと学校のパソコンからメールが来て「上太郎田口と藻に不在伊藤」と書かれてあった。
「丈太郎、田口、共に不在」と美香は頭で変換して池上に伝えた。
「そうですか。じゃあ、お電話お願いします。・・・にしても、ようやく伊藤先生もメールが打てるようになりましたか。関心関心」
文字の打ち間違いには触れず「はい」というと、順々に電話を掛け始めた。

*****

まず最初に繋がったのは、予想通り美智子だった。
「はい。お電話代わりました。先生すみませんね。昨日お電話くれたんでしょ?昨日は、ちょうど前の夫の命日で。もう十二回目なんですけどね。で、丈太郎は今日も行ってないでしょ?」
「えぇ、はい。それで今日は校長も同席してお伺いさせてもらえたらと・・・」
「あら?そんな・・・本当にごめんなさいね。・・・ち、ちょっと待って貰って良いかしら?」
そういうと、いつもの保留音だったが、今回は三十秒程度で終わった。
「あの、今日、早退しますので、良かったら午後一にでも、お伺いさせて貰っても?」
「いえ、私共がお伺いします。横川君本人にも会えたらって考えてますんで」
「そうですね。分かりました。では午後一時にお待ちしております」
そう言って電話を切ると、二人は無言で頷いた。二人の間にはそれぞれのホットコーヒーから優しい香りが立ち込めていた。

*****

「はい、田口でございます」
今日は運が良いのか時間帯のせいか校長効果か分からないが田口宅にも繋がった。
そして、美智子同様にアポイントを取ると午前中に訪問することとなった。

「ピンポーン・・・ピンポーン」
田口の家のインターフォンを鳴らすが一向に誰かが出る気配はなかった。
なんで?と思いながら目の前の家に電話を掛けると陽子の声がした。
「あの、今、ご自宅の前でインターフォンを鳴らしているのですが・・・」
「あら?そうですか。失礼しました」
そう言うと、出てきた陽子は、白いシャツに黒いスーツを着こなしていて、これから出勤だと分かるような格好だった。

「あ、お砂糖はこちらですので。それにしても、今日はわざわざ、校長先生までお越し頂いてありがとうございます」
「いえ、この度は色々とご心配おかけしております」
「ところで、今日は田口君はどうしてらっしゃるんですか?」
少し間をおいて美香が陽子に聞いた。
「毎日、自分の部屋に居ますよ。私たちが両方居ないことが多いもので、外に出かけているかは把握出来ていませんが、本人に聞くとずっと家にと答えております。なので、最近、話しをしている相手と言えば、私か、家庭教師の先生くらいなもんですね」
「そうですか。もし良かったら田口君に会わせて頂けないでしょうか?」
美香がそう聞くと陽子は小刻みに首を左右に振り「それは無理だ」と言った。
「どうしてですか」
「さっき、本人に言ったんです。先生が来られるわよって。そしたら、絶対に会いたくないって」
「え?・・・じ、じゃあ、田口君に送っている手紙は読んでくれているんですか?」
「ちゃんとポストに入っている物は扉の下から入れて渡していますよ」
「それを読んでて?それで?」
「それについては何とも言えませんが、私も子供の気持ちを今は最優先で守ってあげなきゃいけませんから。ご理解頂けますよね。それに約束してくれたんです。四月からは学校に行くからって。クラス替えもあって先生も代わるからって・・・」
「そ、そんな・・・」

その二人の会話を聞きながら池上が話しに纏めた。
「分かりました。学校の対応としては、四年生のクラス替えと担任の交代をお約束します。そう本人にもお伝え下さい。ただし、宮下先生は新米ですが、うちにとって大切な人材です。田口君が登校するようになって、卒業するまでに、今回出来た彼の傷を全力でケアしていきます。彼らが卒業する年に、私も定年で卒業しますんで、最後の大仕事やらせてもらえませんか」
その口調、話の間合い、座っている堂々たる姿勢に美香は、校長という存在の大きさを初めて知ったようだった。そう思いながら苦いコーヒーを飲み干した。

*****

「散らかってごめんなさいね。・・・はい、良かったらどうぞ」黒い彼らはここにも着いて来ていた。
「いえ、急に押しかけてすみませんでした」
「いえいえこちらこそ。で、今日は?校長先生までお越し頂くなんて申し訳ございません」
「いやいや、今回、宮下先生に聞くと色々なことがわかりましたが、彼の気持ちを最優先に考えた上で、どうしても、ひとつ確認しなければならいことがありましてお伺いさせて頂きました」
池上はそう言うと「宮下先生」と続き、美香は、丈太郎が送ったというメールの話をした。

「な!なんですって?・・・まさか」
「私もそれを信じてはいないんですが、今回、何も確証がない中で、送信者が横川君で、生徒の多くがそれを受け取っている事実が今一番真実に近いんです。なので、その確認だけ、その確認がしたいだけなんです。どうにかならないでしょうか」
「当たり前です!一緒に二階に上がりましょう」

「ドンドン」

「丈太郎入るわよ」
美智子はそう言うと、丈太郎は布団に包まったまま声を出した。
「な、なんだよ!出てってくれよ!」
「布団から出なさい!先生がわざわざ来て下さっているのよ」

「キーッ」
静かに開いた扉の音など誰も気付きはしなかった。
「なんだよ!ヤだよ!何だよ!行きたくねぇよ!学校には行きたくねぇよ!」
「んもう、ずっとそればっかりじゃない!丈太郎!ちゃんと言ってよ、お願いだから」
剥がし取ろうとした布団から手を離し、美香の方を向いて呆れて言った。
「・・・こんな風なの。宮下先生」
美香は布団に包まった丈太郎に声を掛けた。
「横川君。先生と話ししない?」
「やだよ!先生は僕をも守ってくれなかったじゃないか!いやだよ!」
「先生だって田口君を追いかけたのよ。本当のこと知りたくて。でも、ナイフなんてもって居なかったわ。お昼休みに横川君が言ってくれてすぐ教室に行ったのよ。それでもよ」
「それでもアイツ学校来ていないじゃないか!きっと、家で僕を殺すための何か作っているんだ!それで僕はどっかに消えちゃうんだ!」
「バカおっしゃい!まったくアンタはどこまでバカなの!だからって、友達にあんな悪戯メールを送りつける人が何処にいるのよ!出てきてちゃんと先生に謝りなさい!」
「何のことだよ!そんなメールしないよ!そんなことしたら・・・」
「嘘おっしゃい!じゃあ調べるわよ!いいのね!」
「勝手に調べろよ!このクソババ!」
そう言うと、美智子は丈太郎の携帯電話を手に取って広げた。そこには「着信1件」と出ていて、確認すると「田口和久 3月20日(金)11:57」と表示されていた。それを見ると美香と美智子は目を合わせ、凍てついた空気が急にピンと張り詰めたようだった。その後もメールの送受信を確認してみたが、送信、受信に問題はなく、送受信数を見ても五百件ずつあって、故意に削除されたような形跡すらなかった。まず、そんな細かいところまで気の回るのような性格でないことは誰もが理解していた。その頃、テーブルの黒い奴らは寂しそうにすっかり冷め切っていた。



**扉の向こう、心の向こう**

「コンコン」

「丈太郎?ちょっといい?」
「え?聡美姉ちゃん?うんいいよ」


「バタン」

*****

「難解でしたね。これは一度、双方の許可を取って、田口君と横川君を同席した上での話しを
設ける必要がありそうですね」
「しかし、校長先生。横川君は田口君を恐れています。そんなこと出来るでしょうか」
「あれは嘘です。多分。ここからは猿も木から落ちるじゃないですけど、今日見た私の直感ですが、横川君は本当のことを話していない。もしくは、何かを聞かれると不味い、隠し通さなければならない何かを抱えています」
「どうしてそれが分かるんですか?」
「うーん、彼の言い方や震えていた布団など、細かく言えばありますが、三年間見てきた知りうる彼の性格だと、少なくとも何も隠す必要がなければあんなに布団から出てこないなんてことはないでしょう。それに、普通に喧嘩したって負けるはずもない、メールだけで、あれだけ賛同してくれる友達も居る彼が、田口君一人にあそこまビビりはしないでしょう?」
「そうです、ね。さすが校長先生ですね」
「これでも教師生活30年です。あんな芝居なら見抜けますよ」
「あ、それ、今朝も聞きました」
「そうでしたっけ?ははは。って、今日はよく笑うし、芝居は見るし、コーヒーをよく飲んだ一日ですね。
ところで、今から戻るとちょうど生徒の下校時間になりますけど、時間を空けてから戻りますか?」
「いいえ。私が生徒から逃げたら終わってしまいますから」
美香は少し考えてからそう返事をした。
「そうですか。今回の事で成長があれば良いですね」
「はい。気持ちが逃げている生徒を捕まえなきゃいけませんから!」
「そうですね。そうやって、どんどん追い抜いて先生の見本にならなければ、ですね」
そう言いながらも、二人を乗せた車が他の車を追い抜くことなく確実に車間距離を取ながら走り続ける辺りは実に池上らしかった。

*****

学校に戻ると、池上の言う通り生徒の下校時間の少し前だった。
美香が池上より先に車を降り、校内に入る頃、ちょうど偶然にも三年一組の生徒たちが下校するところだった。
「あら?みんな、さようなら。気をつけて帰るのよ」
「うわ、先生?今日、けんしゅうってやつだったんでしょ?明日もけんしゅうだといいね!」
「今頃来たの?逃げたんじゃねーんだ?」「先生バーリア!こっち来んなよ!」
「明日で終わりで良かった~」「もう来なきゃいいのに!」
生徒たちの罵声は美香の奥底に強く突き刺さった。


「私が何をしたって言うんだ?私は誰のために頑張っているんだ?」
心の中でそう思いながら、何も言うことが出来ず、ただ呆然と無意識にも美香の左手は出来るだけの痛みを一手に請け負ったように拳を握って耐えようとした。笑顔も忘れた心は、さっきまでの誓いも、教師という仕事も、まるで汗水垂らして必死に作った砂浜の山が一瞬にして波に流れさたように消え去り、美香は誰でもなくなった。



八章

**抜け殻**

「ぷるるる ぷるるる」

「はい、西峰小学校の谷口です」
「あ、おはようございます。宮下です。すみません。今日だけお休み頂けないでしょうか」
「え?どうしたの?何かあったの?」
「ごめんなさい。熱とかはないんですけど、体調がどうして悪くて。病院に行って来ようと思うんですが、
今日は行けそうにもなくて・・・」
「あ、そう。・・・分かったわ。山崎先生に言っておくね。もしかして、精神的な疲れなんじゃないの?大丈夫?」
「はい。今日ゆっくり休めば大丈夫だと思います。本当にご迷惑おかけします」
「分かったから。あ、昨日ね、ちゃんと問題なく伊藤先生やってくれたって。きっと今日も大丈夫だと思うわよ。だから安心してゆっくり安静にしているのよ」
「ありがとうございます」
そう言いながらまたひとつ傷ついたような気がした。

「ブー ブー ブー」
美香の携帯電話が小刻みにテーブルの上で震えていた。
「もしもし。なに?」
「おー出たか!いやぁよぉ!昨夜掛けたのにお前出んけぇ何かあったんじゃねぇかって!」
美香は起きてはいたが、その電話には全く気付かなかった。
「ま、出たなら良かったわ。朝からスマンじゃったの!」
「いいの。今日はお休みもらったから」
「どげした?何かあったんか?風邪か?じゃったら気合いで治さんかい!」
「うん。気合いで治す。ありがと」
「嘘じゃ嘘じゃって!何怒っとるんか?今日、仕事終わったら行くけん待っとれ。あ!明日、明後日と休みになったけん、
どっか旅行でも行くか?な?」
「ううん。いや、いい。行かないし今日は会いたくない。放っておいて」
「どうしたんじゃ?放っとけられるか!」
「いいから!放っておいて!そんなしつこい所が嫌いなのよ!」
美香は思わず、思ってもいないことを叫んでいた。
「なんじゃと?分かったわい!勝手にせい!もうお前なんぞ知らん!」
そう言い放たれると、圭介の電話は切れ、ツーツーツーという終わった音だけが美香に震えることなく鳴いていた。

*****

「ピンポーン」

時計の針は午後九時を少し回っていた。
電気も付いていない真っ暗へ部屋には留守番電話のボタンだけが赤く点滅していた。
前日に午前五時まで眠れなかった美香は疲れ切って一度も起きることなく、
まるで逃げ込んだように深い眠りの中に入って出ては来なかった。

無気力に起き上がり、電気を探して付け、その灯りに眩しすぎて目も殆ど開いていない状況にも関わらず、
玄関の扉を開けた。そこに立っていたのは圭介だった。
「お前なんちゅう顔しとんじゃ。俺やなかったら赤っ恥かくとこやったぞ?」
「ん?あ、うん」
そう言うと、掛け布団が蓑虫の抜け殻のように膨らんだ布団の中にもう一度入って動かなかった。
「お前今日休んで一日何しとったんか?」
「・・・寝てた」
「風邪は?」
「・・・そんなの引いてない」
「ほなどっか体調が悪いんか?」
「・・・どこも悪くない」
「んらな、なんで学校行かんかったんか?」
「・・・」
「やっぱどっか悪いんじゃろ?ほら、言ってみ?言ってくれや」
「・・・こころ」
「心?あれからまたどうかなったんか?何があったんか?」
「・・・何も」
布団の中に顔を突っ込んだ美香はまるで、昨日の丈太郎のようだった。
「んらな、なんで学校行かんかったんか?」
「・・・行きたくなかったから」
「行きたくないって、お前は小学生か!アホか」
「・・・今は小学生の方が残酷よ」
そう言われると圭介は喋るのを止め、抜け殻の中に入り込んで、そっとぎゅっと美香を背中から抱きしめて
「どんなお前でも俺は離さんぞ」と言ったまま二人だけの時間と、圭介には分からなかったが美香の目からは涙が流れていた。
しかし、その涙の原因が悲しさや悔しさのものか、優しさや温もりのものだったかは美香自身も分からないままだった。
そして、その時間はただ流れた。ただただ流れていった。




**アカイサイカイ**

翌日、圭介は美香のお腹の音で目が覚めた。
正確に言えば、すでに起きてはいたが、二人が起きて一日が始めるきっかけにした。という感じだろうか。
「おら美香!腹がなっとるぞ。飯でも食いに行こうぜ?俺も夜飯食うてないから腹減ったわ」
すると美香は、二人で包んだ毛布を独り占めしてながら起き上がり、首から上だけ頭を出した状態で圭介を見つめていた。
「ん?いらない」
「いらないちゃうわ!そのままやと死んでまうぞ?」
「・・・それも良いかもね」
その声は冗談には聞こえなかった。
「あのなぁ・・・俺も腹減ったんや!もう無理やりでも連れて行くぞ!ほら!」
そう言うと圭介は、美香が必死に抵抗するも強引に布団を剥ぎ取った。
「ほら、スッピンで行くか?化粧するか?どっちや?どっちでもいいぞ俺は」

「・・・分かった。眉毛だけ書くから」
そう言うと、圭介はそれを待ってから美香を近所のファミレスへと連れて行った。

*****

「オムライス大盛りの方」
「こっちじゃ」
そう言われるとウエイトレスは圭介の前にオムライスを置いて、トースト二枚にスクランブルエッグ、ウインナーと
野菜の乗った朝食プレートを美香の前に置くと、商品が全部提供したことを確認し、伝票をテーブルの透明な筒に丸めて
刺してバックヤードに戻って行った。
「うっし!食うぞ!ほらお前も食え!またグゥーって鳴るぞ?」
「・・・もう、少し黙ってよ」
圭介は美香が何かしらの反応をしてくれることを確認すると、オムライスの黄色がケチャップを大量に掛けて、
スプーンを手にする頃にはその殆どが真っ赤っかだった。
それを口いっぱいに頬張る圭介に対して美香は、トーストに何も付けず「パリッ」っと音を立て小さな一口を頬張った。
圭介の大盛りの赤いオムライスは十分も経たないうちに完食された。
「おう、ほらもっと食え?いつもはこんなんパッパ食うじゃろ?」
十分で食べたものは半分のトーストと、セットのスープだけだった。
「・・・うん。もう要らない」
ここでも強引に「食え食え」言おうかとも一瞬思ったが、圭介はそれ以上言うのを止めた。

「学校辛いんじゃろ?しんどそうじゃ。何があったか話しだけしてくれんか。辛いとは思うがの。
けど、生徒みたいに教師が不登校にはなれんじゃろ?」
そう言うと、美香を自分の「間」を探し出し、今まであったことや、一昨日の放課後、生徒から受けた罵声になど
全て隠すことなく話をした。

「な、なんやて?そんな、許せんわそんガキら!お前が何をしたって言うんじゃ?
大体、生徒ために頑張っているんじゃっつーのに!ガキは何も分かっとらん!」
その言葉を聞くと美香はクスッと笑った。
「お!今笑おうたな?って、ちゃうやん!今じゃないわ笑うとこ!」
「・・・ううん。圭ちゃんって、いつもはガサツでギャンブル好きで良いとこないけど、ここって時だけは格好良いね」
「お、おう!ってシバくぞ!いつも格好良いじゃろが、このバカチン!」
おそらく、心に留めた自分の声を代弁してくれたことが嬉しかったのだろう。少しだけ崩れた砂浜の山が
修復されたような気がしていた。
その後も二人はいつもに比べればあまりに静かではあるが、少しずつ会話を交わし、圭介はドリンクバーでお替りしすぎて
三回もトイレの往復をした程だった。

*****

「もうこんな時間じゃな。前に行った公園にでも寄って帰るとするかの」
「うん」
そう言うと、ファミレスを出ると圭介からは初めてとも思えるが、二人は手を繋ぎ、紅い夕焼けに染まりかかった
公園へと歩いていった。

その公園とは、美香の家の近所にある公園で、特に変わったものがあると言うわけではない普通の住宅街の中に
ポツリとある小さな公園に過ぎなかった。あえて言うならそこには、鉄棒の横に高さ二メートルほどの高鉄棒があり、
圭介はそれを使って懸垂をしていた。

「・・・十七、・・・十八、・・・十九、・・・二十!っふー。気持ちええぞ?お前もなんか運動せんか」
「いや、いいよ。見ているだけで十分よ」
そんな会話をしていると、誰かが公園に入って来た。何気なく目をやると、そこに立っていたのは、和久だった。
狭い公園とは言え和久の死角になるベンチに座っていた美香には気づいた様子はなかった。
和久は懸垂している圭介を眺めている。美香には和久の背中が見えている状態だ。美香は拳を強く握り、開いてみると
その白い手を強く握ることで、手のひらの一部が赤くカタが付いていた。手の冷たさは少しばかり解消され、美香は
意を決したように立ち上がった。十日振りの再開だった。

「田口君」
和久は一瞬ビクっとして振り返ると、そこに居たのはやはり和久だった。
「・・・あ、先生」
そう言うと美香は和久の所へ走り出し、そのまま和久に抱きついた。
「ごめんね。田口君ごめんね。先生ね本当に田口くんを傷つけたわね。けどね、本当にそんなつもりじゃなかったの。
だから、学校に来て!一緒に終業式出よう!ね!」
思わず泣き出した美香に驚いた圭介は高鉄棒から降り、ゆっくり二人の方に歩いて来た。
「・・・あ、あの。ちょっと離して」
そう言うと、和久は美香から両足を一歩ずつ後退させ言った。
「先生ごめんね。本当は僕が悪いんだ。だけど、先生と仲良くする訳にはいかないんだ」
そう言いながら和久は右ポケットに手を突っ込み、手を抜いた時、取手の青い光る銀のナイフを取り出し、
両手でゆっくりと刃を立てた。

「あ!それは!」
と圭介は思いながら歩いていた速度を全力疾走に変え走り出した。和久が左足を前に出した。
しゃがみ込んで抱きついていた美香は立ち上がって逃げようとしたが、おののきそのまま尻餅をを突いて和久を
見上げる格好となってしまった。和久の右足は前に出しながら、ナイフを握った右手の腕を後ろに少し引いて、
そのまま前に突き出そうとする。圭介は二人に飛び込む。美香はぎゅっと目を閉じた。

*****

「おいガキ!お前が何で俺のナイフ持っとんじゃ?」
「・・・え、あ・・・え・・・」
どうやら和久は圭介のドスの効いた声にではなく、圭介の左肩に刺さったナイフと、
そこから流れ落ちる紅い血液に言葉を失っていたようだ。
「ん?何か言わんか!逃がさんぞ!黙って逃げるなら学校にも言って、親にも言って怒ってもらうぞ!ん?
嫌じゃろ?・・・か、警察にでも突き出されたいか!」
「も、も、もうイイわよ圭ちゃん!離してあげて!警察になんて言わないから早く行きなさい!」
泣きじゃくる和久は、そのまま公園から走り去ってしまった。
「もう!圭ちゃん!こ、こんなに血が!血が!ちち、血が」
気が動転していたのは美香も同じことだった。
「泣くのは構わんが鼻水は汚いの!どけや!」
そう言うと圭介は自分で公園まで救急車を呼び付けた。しかし、圭介は自分が思っている以上の出血に腕を必死に押さえ、
その上から美香も両手で押さえるが、血が引く気配はなかった。
「ヤバいのコレ。段々、手が冷とうなっとる。早よう救急車来んかの?余裕カマしとう場合じゃなかったんかの?」
圭介の言葉数が徐々に少なくなってくる。電話して十分ちょっとが経った頃だろうか。大きなサイレンが段々大きくなって、
公園の前に止まった。美香はぐったりとし出した圭介を打き抱えていたが、あとは救急団員のなすがまま、
彼らの最善の処理で救急車に運ばれ、紅く染まった二人をその大きなサイレンは連れ運んで行った。

*****

逃げ出した田口は家に帰ると受話器を取って泣きながら電話をかけた。
「もしもし、僕だけど・・・借りたナイフで人、刺しちゃったんだ」
「え?なな、なんでだよ!だ、誰をだよ!それ」
「宮下先生と公園に居て、あの先生さえ居なくなればいいって言うから・・・」
「で、先生を?」
「・・・ううん。そしたら横から懸垂していた男の人がやって来て、その人に刺さってしまったんだ」
「誰、それ?」
「分からない。分からないけど、何で俺のナイフ持ってんだ?って言ってた」
「俺のナイフ?なんだそれ?変なヤツか?だってこれは・・・」
「分からない・・・あ、ママが帰ってきたから切るね」

そう言い残すと二人は電話を切った。

「丈太郎!ご飯よ~」
リビングからは美智子の声が丈太郎を呼びにやって来た。


九章 ~完結~



**集合の刻**

「うん、父ちゃんは出張で帰って来ない。お前んとこは?」
「パパは病院に寝泊りしているから。今日も」
「そっか・・・でもよく先生、お前んとこ来なかったな」
「ううん。来ていたんだ。だけど、家のインターフォンのコードを切っておいたから、家には鳴らないようにして
おいたんだ。先生と会っちゃダメだってなってたから・・・」
「けど、なんか、学校のみんなに先生の悪口のメールが送られたんだって。知ってるか?」
「ううん。知らないよ。自分で送ったんじゃないの?」
「しねぇよ。と、とにかく家来いよ。・・・みんなで相談しよう」
「・・・うん分かった。今から行くよ」

*****

「もう来んでええからな。お前、ガキの母親から呼ばれたんじゃろ?行ってこいや」
「あ、うん。分かった。もう大丈夫なのよね」
「大丈夫じゃ。もう今日退院するわい!」
突然、美智子から美香宛に電話があり、丈太郎と和久の会話を智代が聞いていて、それを美智子に相談したのだと
美智子は言っていた。
「本当ね。大丈夫なのよね」
「おう!当たり前じゃ!」
「中島さーん」
「お、オバサンナースが呼んどるわ!注射じゃったら嫌やのう・・・じゃあまたの!」
「んもう!・・・失礼のないようにね!」
そう言うと二人は電話を切ってそれぞれの場所に向った。

*****

「バタン」

陽子が家に居る時に和久が出掛ける事は、最近ではとても珍しいことだった。しかも、慌てた様子にさえ見えたその状況に
強い違和感を覚えた陽子は、和久の跡を付けて歩いてみた。当然、こんなことをしたのは初めてのことだ。

*****

美智子と智代は、とりあえず知らない振りをしていた。そっと玄関が開きいて閉まった。
丈太郎と和久はそのまま二階に上がって行くと丈太郎は自分の部屋をノックして言った。
「カズが来たよ。入るね、聡美姉ちゃん」

*****

「ピンポーン」

インターフォンを鳴らしたのは美香だった。そして、それが美香だと分かるとそそくさと陽子が美香の前に現れて
「今日は何かやられているんですか?」と聞いてきた。おそらく、一人では入れず、そのきっかけを探していたのだろう。
陽子にとっては願ってもない訪問者となった。

*****

L字型の大きな白いソファには、美香と陽子、それに智代が座っていて、美智子はコーヒーを人数分テーブルに置くと、
一息ついて「私、あの子たちを呼んできます」と言った。美智子がそう言うと智代が「お姉ちゃんもよ」と続いた。
「そうね。分かったわ」
重たい空気の中、美智子は二階へと上がっていくと、二分も経たないうちに美智子が戻って来て、
その後、丈太郎と和久が二階から静かに降りてきた。



**傷名の雫**

「あ、ママ」
驚いた表情ではあったが、特に慌てることはなく、どこか、なんとなく居る事を知っていたかのようなくらい落ち着いていた。
そして、二人の後ろから聡美も降りてきた。いつもは智代に切ってもらっていたが、ここ一年程はなく、胸の下くらいまで
長く伸びきった髪はボサボサのまま、顔も誰かはっきりと良く分からない程だったが、扉の向こうで潜んでいる住人だった。

「カズちゃん。今日は横川君のお宅に何の御用でお邪魔したの」
陽子はいつも口調でいて、毅然たる態度を崩す様子はまるでなかったが、和久の一言で大きく心が揺さ振られることになった。

「ぼ、僕がやりました。僕が計画を立てて、僕がお兄ちゃんを刺しました」

「カ、カズ・・・ちゃん?・・・な・・・何言っているの?」

その後続いた沈黙は、まるで法廷で被告に与えられる判決を待つように凍てついた突き刺さるような静寂が
リビング中を支配し、ここに居る全員が被告であり、原告であり、傍聴者にもなれたが、誰一人、裁判長となり、
この裁判に裁きを下せる者は居ないかった。

そんな中、「裁判長!意義あり!」そんな感じで飛び出したのは丈太郎だった。
「俺だよ!俺がカズに言ったんだ!一緒にやろうって言ったんだ!俺が悪いんだ!」
小刻みに小さな体は震え、今にも零れそうな涙を堪え、訴える丈太郎に、聡美は丈太郎の頭を優しく撫でた。
「いいえ。全ての始まりは私です。私が言ったんです。『宮下さんが憎い。あの人さえ居なければ』って。
それを丈太郎が偶然聞いてしまって・・・」

「な、なんで宮下先生なのよ!聡美!アナタ、宮下先生のこと知らないでしょ!」
美智子の叫ぶような声が飛んだ。

聡美は丈太郎から離れると、ダイニングテーブルに座り静かに話し始めた。
「小学生の頃、水泳している姿をパパは喜んでくれたわ。初めて入賞した時なんて、本当に喜んでくれた。だから、
水泳で頑張っていれば、死んだパパもきっと喜んでくれるって思ったわ。それがいつしか、私の自信にもなったの。
だから、肩を壊した時は、部屋で毎日のように泣いたわ。けど、今まで頑張ったんだから諦めない!だから、今まで以上に
打ち込んだの。そうやって、全国大会目前まで来た。そしたら、最後の最後で、隣のレーンの子がフライングしちゃって、
それでタイミングが合わなくて。しかも、その子が、最後の全国大会のチケットを持って行ったわ。・・・ねぇ、宮下さん?」

聡美は、長く伸びきった髪を後ろに束ねながら、すっと斜め前に立っている美香を見上げた。
美香はその言葉に混乱していたが、その束ねた髪に水泳キャップを被った聡美の姿が浮かんだ瞬間、脳裏に
あの決勝のシーンも、自分の心境も、隣のレーンの憧れの工藤と横川聡美が同一人物であることも鮮明に蘇った。
「く、工藤さん・・・」
「お久しぶりね」
美香は驚きながらも頷くように小刻みに首を上下させながら、この状況を整理していた。

「だ、だ、だから、俺がカズに相談したんだ」
「丈太郎・・・だけど、あの悪戯メールはなんだったの?」
美智子はまだどこか状況が把握出来ないのか、したくないのかは分からないが、そんな面持ちで丈太郎に聞いた。
しかし、返事をしたのは聡美だった。
「あれは私が勝手にやったの。丈太郎の友達にメールして削除して、そのあと、丈太郎に、智ちゃんにメールを
何度かするように丈太郎に言ったの。履歴の帳尻を合わせるために」
「あ、だから、今日は夜ご飯要らないってママに言ってたのに、丈太郎からメールが来たんだ」
智代がポツリと零した。

「なんでよ!・・・な、なんでそこまでしなきゃならないのよ!そんなに憎む必要ないでしょ!」
美智子の叫ぶような声には涙も滲んで飛んだ。

「工藤さん。・・・あの時は、緊張しちゃってて・・・本当にごめんなさい。だけど、それは、それも勝負でしょ?
緊張が止まらなくて、仕方なかったの。許して」
聡美は、美香の言葉を聞き終わると美香から目線を外し、ベージュのカーディガンの左ポケットから青いヘアゴムを
取り出してそっと後ろに手を回して縛ってから言った。
「それだけじゃない。それだけじゃないわ!あなたが奪った物は、それだけじゃない」

「なに?なんなの?」
これ以上、思い当たるものがなく反射的に聞き返す美香に対して、聡美はあくまで自分のテンポで、ゆっくりと今度は
右にそっと手を入れて取り出したものは、和久が持っていたナイフで、それをテーブルに置くと、二秒程それを眺めて、
もう一度美香に視線を移して言った。

「・・・圭介」

「え?・・・」

「私が高校一年生の時、肩を壊して落ち込んでいたのを助けてくれたのは、広島からこの街に一人でやって来た彼だったわ。
それから付き合い出して嬉しかったけど、高校も辞めていた彼は毎日が喧嘩ばかりで、私も時々手をあげられていたわ。
それでも、我慢して我慢して・・・やっと、更生するって言ってくれた時は、本当に嬉しくて泣いたわ。このナイフを眺めて何度も。
なのに、やっと更生してくれて、仕事も見つかったっていうのに、その数ヵ月後に、突然、別れ話をされて、好きな人が
出来たって・・・色々話し合ったけど、もう使用が無いことと諦めていたわ。そうしたら、その相手があなただなんて・・・」
聡美は俯いたまま、溢れるものを抑えるように続けた。

「そ、そうして、私に残ったものは、もう必要ないからって更生の誓いとしてくれたこのナイフだけだった。パパも
水泳も恋人も、愛したものはすべて失ったわ。そんな自分の宝物で自分の心を何度も何度も切り刻まれながら消えていったわ。
だから、もう、何とも出会いたくなかった。見たくなかった。人に触れたくなかった。・・・私、頑張った。頑張ったの」

「だからって・・・」
美智子は見つかる余地もないを言葉を探すように一言零すと、智代にピタッとくつっていてる丈太郎に目をやった。
その母親の仕草を見ていた智代が息を深く吸い込んで言った。

「お姉ちゃん頑張ってた。形はこうなっちゃったけど、みんなそれを見ていたよ。ね、お母さん」
美智子は零れる涙を静かに拭いながら黙って頷いた。
「丈太郎もそんなお姉ちゃんに協力したかったんだよね。前みたいに笑った顔がみたかっただけなんだもんね。
だって、聡美お姉ちゃんが初恋の相手だもんね。ね?丈太郎?」
「う、うん。さ、聡美姉ちゃんに喜んで欲しかったんだ。本当はやっちゃダメってこと知っていたけど、
俺、笑って欲しかったんだ」
丈太郎は下唇を上の歯で噛みながら堪えていたが、頷いて言った。

聡美の事で夫の太一に理解があるだけに、余計な後ろめたさもありながら、今まで必死に築いてきた家族の形が
壊れ行くのか絆で結ばれていくのか、そんなことを考えて暮らしてきたが美智子は、そのやり取りを見て、意を決したように
美香の目の前まで行くと、そのままの勢いでしゃがみ込むように土下座をした。美香は、それに瞬間的に反応するように、
そのまましゃがみ込んで美智子の震える両肩に手を置いた。
「先生!本当に申し訳ございませんでした!私は、私は親として失格です。こんなことに気付かず・・・
それでも聡美は私の娘です。本当に頑張り屋で人一倍努力をしてきた子です。だから!だから、この責任は私にあります。
・・・そ、そ、それに・・・」

美智子の震えて頭を下げ小さくなったその姿には、母親としての大きな背中があった。
「それに、丈太郎もです。この子がやったことは決して許されることではありません。しかし!この子も私の子供です!
私が、私たちが一生懸命に築いてきた家族なんです。だ、だから、どうか、この責任を私に負わせて下さい!それに、
田口君のところまでご迷惑をかけてしまって、私はどう謝れば良いか分かりませんけど・・・本当に申し訳ございませんでした!」
リビングには、美智子の泣き叫ぶような言葉たちと、フローリングに落ちた涙や鼻水に汚れなど一切無く、
家族愛と呼ぶには相応しすぎる程の雫のようだった。

「な、何をおっしゃってるんですか!あなたにどう責任が取れるとおっしゃるんですか!」
それに納得出来ないのは和久の母親、陽子だった。
「どうしてくれるのよ!お宅のこんな居座古座のせいで、殺人未遂・・・、私の息子までなんでこんな想いを・・・
なんで・・・許せません!私は、許すわけには・・・」
瞳にはうっすら涙を溜めつつも毅然な態度で陽子は言い放ち、和久を抱きしめて言った。
「カズちゃんごめんね。けど、カズちゃんが悪い訳じゃないのよ。大丈夫よ」

「ううん。僕がやったんだ。自分でやるって決めてやったんだ」
唯一と言っても良かったかも知れない。冷静にその場に立っていたのは和久だけだった。

「な、なんでよ、カズちゃん。なんで・・・」
陽子は膝をついて、和久の肩に両手を置いてどうにかなりそうな自分を精一杯抑えて和久の言葉を待った。
「嬉しかったんだ。ここに引っ越してきて一人も友達が出来なくて、兄弟も居ないし、家に帰ってもパパもママも居ないでしょ。
そんな時に、ジョウくんだけが僕の見方だったんだ。友達になってくれたんだ。だから、僕は嬉しいんだよ、ママ」
陽子は初めて和久の本当の気持ちを理解出来た気がした。その瞬間、横川家の方が自分たちの何倍「家族」というものなの
だろうと思った。そして、今まで以上に和久への愛情と、親としての恥ずかしさの両方を同時に痛感した。

「・・・・・カズ、ちゃん。・・・・・・・・ごめんね」
陽子は、和久をさらに強く抱きしめると、堪えていた最後の一線を越え、ダムが決壊するように泣き崩れた。

*****

「バタン」

「ふぅ。間に合ったか」
そういってリビングに入ってきたのは圭介だった。
「おうおう、やっとんの?泣いて泣いて泣いとるの。・・・お、聡美。久しぶりやな」
「な、何しに来たのよ」
目を赤く腫らした聡美は弱弱しく圭介を見上げるも圭介の次の言葉を待っているようだった。

「俺は、お前にあんなに愛されながらも悪さばかりして、傷つけた。今になって反省しとる。
それでも、聡美には悪いが、後悔はしとらん。バイクにも喧嘩にも命張ってた。必死じゃった。
負けとうなかったけん、必死じゃったんじゃ。けど、大人ってやつになったら無力で、親父にも仕事の親父にも世話になって、
美香と出会って、生きる道っちゅうたら大袈裟やけど、やっと見つけたんや。そういう意味じゃお前が言うてたみたいに、
俺は運が良かったんかも知れん。だからこそ、今は仕事と愛するものにも命張るつもりでやっとる。日々の運に命を張ったら、
そりゃ、運じゃのうて運命になるんじゃ!・・・そうすりゃ、もう後悔せん。って、今のは映画の受け売りじゃがな」
聡美の表情は、徐々に穏やかになり、強張った心はバターが溶けるように消え去り微笑んで言った。

「圭介・・・・。成長したんだね」

「おぅ。当たり前じゃ!・・・お前のおかげ、美香のおかげ、みんなのおかげ。ワシもまだまだ
子供じゃのう。けど、いつまで人に迷惑かけりゃ大人になれるんじゃろか、の」


凍てつく真冬のようだったこのリビングに挿し込む光は、歪みも淀みもない、
真っ直ぐで鮮やかな桜舞う情景が良く似合う、紛れもない春だった。



**西峰小学校三年一組教室**

三月二十四日、月曜日。
今から終業式が始まる。空席はひとつもない教室。朝の会。丈太郎と和久は生徒たちの前で謝り、美香への誤解も晴れ、
生徒たちも美香に「ごめんなさいと」と口々に言ってくれていた。
美香の心は、そんな生徒を許すとか許さないとかの選択肢はなく、誰もが抱くもの、大切なものを教わった気がして
穏やかな気持ちになっていた。というのも、その日の前夜、圭介からプロポーズを受けていたことが大きなきっかけだったかも
知れないが、そこは触れないでおこう。

「さ、みんな!終業式行くよ!」





**西峰小学校運動場**

五月四日、日曜日。
丈太郎と聡美は、誰も居ない運動場に居た。

「いい天気ね。何年振りだろう、外に出たの」
「二年くらい振りだよ!ここに来たのは!」
「そっか。丈太郎が小学校に入ってすぐ一緒に散歩したよね」
「そう。そん時は桜の木が満開でさ!」
「そうだったわね。私も覚えてるわ。綺麗だったね」
「うん!そうだよ!・・・ね!やっぱり、外っていいでしょ?ね?」

「そうね。ありがとう。誘ってくれて」
「うん!」

『いつまで人に迷惑かけりゃ大人になれるんじゃろか』
聡美は、圭介の言葉を思い出しながら、今の自分も同じだなと、柔らかに笑った。
それを見た丈太郎も、満面の笑みを浮かべ、とても嬉しそうだった。
桜の木から視線を外した聡美は、そのまま、笑っている丈太郎を見つめながら思っていた。


昨日までの私。今日からの私。
私は運が悪かった訳じゃなかったのかも知れない。
その運を避けて憎んで時には妬んで、毎日さえなかったことにしていた。

怖いこと、苦しいこと、悲しいこと。それは、どうやったって訪れる。
だけど、それは立ち向かう為に、「助けて」と言う為に、「ありがとう」と言う為に、
笑って泣いて怒って、少しずつ、人の痛みの分かるようになるための、運命。


もう負けない、と。

*****

「まだ、残ってるかな。あの桜の木に彫ったやつ」
「「あいあいがさ」でしょ!うん、残ってるよ!ねぇ、見に行こうよ!」
「そんなに走らないでもいいわよ、丈太・・・もう!」
「早く!早くー!」
「はーい」

五月の美空は、桜の木も青々とした葉桜となり、何事もなかったかのように、そっと春の終わりを教えてくれていた。
しかし、聡美の目には、桜から葉桜へと、まるで赤から青へと変わるシグナルのように、
新しい始まりを告げているように映っていた。




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短編微書「諸刃のサクラ」

あとがきにかえて。
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「不安の果実」

心の扉が閉じている訳じゃない。
ただ、その開き方が
分からなくなってしまっただけなんだ。

一人を好み、一人が怖い。
誰にも触れて欲しくない。
だけど、誰にも忘れて欲しくない。


逃げても逃げても時は流れる。
伝わらない事、
許されない事、少なくない。
忘れたい事、
忘れたくない事、少なくない。

だけれど、
それを僕らは「人」と呼んでる。

甘くてすっぱい
不安の果実の真ん中にある固い種。
それをきっと自信と呼ぶんだ。

次の実を咲かせるための
生命の息吹の根幹のように・・・


いつでも僕らは
不安の実を齧って生きている。
信じるものがあるから。
信じたいものがあるから。


そうやって
今日も暮らして生きたい。

できれば、
この目に映る
多くのものたちと。

無条件に解放された
寄りかかれる程の愛情と。



たとえすぐに枯れると分かっていても
その一瞬のために咲き誇る
大きなサクラの木のように。

生と死を鮮やかに繰り返す
諸刃のサクラの木のように。


この扉の向こう側は、
本当の強さを求めて辿り着いた
終着点でも出発点でもあって、

僕らの大事な場所になるって、
そう信じている。

だから人はその扉を開けてみるんだ。
僕だってそうさ。



「バタン」


10.11.16